手で叩かなくても言動で叩く駄目教師
我が家は中学校のグラウンドに接しているので夏には中学生の野球大会やサッカー競技会が行われる。一番困るのはサッカーの試合があって風向きが悪いとグランドの土埃が家に吹いてきて洗濯物を干せなくなる。ま、この件は物干しを家の逆側に移動させて解決したのだが、駐車スペースは移動できず、車に積もる土埃だけは防げない。その意味で、雨が降ってくれると大変あありがたいのだが、競技を行う生徒は泥んこで大変だろう。
この中学生のサッカー部にも顧問が居る。土曜日の休みの日に大声で選手を怒鳴りつける声は窓を開けていると家の中まで聞こえてくる。
熱心なのかドSなのか、よくもそこまで罵倒できるなと思うほど舌鋒は鋭い。ところが、このチームは強いのか翌日の日曜日になっても罵倒が聞こえてくる。
さすが、気になって見学に来た風をよそおって教師の後ろで見ていた。
試合が始まると個人名を上げての罵倒が続く。さすがたまりかねて「近所のものなんですが、汚い罵倒が耳に入って生徒達が心配になるほど迷惑なんですが」と言ったら怪訝そうな顔をして「こいつら、頭を使ったサッカーしろと言うとヘディングばっかりする奴らなんですよ。何を言っても理解できないからいいんです」と平然と答えてくる。
こんなのが教師ねぇ。
手で叩くのも口で罵倒するのも駄目。まず、教える努力をしなくては。で、教えても解らないのなら教える側が下手だから。
大学で非常勤講師をやっていて会得したものは、考えるヒントを与えることが教育ってこと。教えたことを覚えたかって試験するのは教育では無い。教育事務だ。
講義を行ってどれだけの「好奇心」を引き出せたかが講義の成果だ。つまり、考えるきっかけを沢山提供するのが教育の現場使命。
「こいつらバカだからぁ」って発想では教育は成り立たないし、時間の無駄だ。
最近はドSの罵倒教師のチームが弱くなったのか、土曜日にたまに声を聞く程度になっている。ちなみに、戦法も戦術も無い体力勝負の指導だったので、優秀な生徒が居なくなると勝てなくなったのだろう。
勝つことに価値観を持っては教育では無い
何回も書いているがJリーグが始まった時に、当時の川渕チェアマンは「僕は日本に本当のスポーツを作りたい。今までは全部「体育」。スポーツは文化です。生涯を通じて関われるものです。」(意訳)と言っていたが、まさに、まだまだ「体育」が残っているのが、今回の一連の「体罰」から始まって暴力パワハラに居たる「体育」の限界、時代錯誤が表面化したのだろう。
義務教育での体育に一点だけ成果のあったものがある。それは、スポーツ的なのだが、多くの国民が多くの競技のルールを知ることで自分自身が行わなくてもスポーツを観戦することを楽しめるようになったこと。
サッカーのパブリックビューなんかを見ていると50代のおばさんが「今のオフサイドちゃう?」なんて発言するのは体育教育の成果だ。(おばさん層を例示したことに他意はありません)
昭和天皇が大相撲好きなのは有名だが、スポーツに触れる機会が少なかったので見て楽しめる競技が大相撲くらいしか無かったのだろう。
昭和天皇の野球観戦で有名な天覧試合。最後に村山投手から長嶋茂雄選手がサヨナラホームランを打った時に会場が大騒ぎになったが昭和天皇は意味が解らず、侍従が「試合が終わりました」と言ったら「あ、そう」とだけ答えたそうだ。
勝つためにスポーツする、これは間違い。スポーツは文化なのだから勝つために文化活動をするってのは矛盾する。競技の結果勝ち負けが生じるが負けた者が劣っているのでは無い。
出来ないから出来るように努力する。それがスポーツの持つ文化性だ。
出来ないなら叩くってのは文化人では無く野蛮人なのだ。まして罵倒するって目に見えない傷を作って傷害罪の責任回避するドS教師は「死んだらええのに」
会津藩の「什の掟」でも煎じて飲め!