最高責任者には無謬性がある
最高責任者と言うか最終責任者は過ちを犯しても責任を問われない。やることなすこと正しいってことはある。
例えば戦前の天皇陛下だ。最高権力者であるが故に無謬性があり、責任を問われない。
身近な例で言えば個人商店の商店主はどのような経営を行っても無謬性があり責任を問われない。だが、株式会社の社長は、その上に株主総会って最高権力があるので無謬性は無い。
キリスト教で聖書に無謬性があるのは、キリストは亡くなっているので、最高権力は、(この場合は最高権威だが)には無謬性がある。
俺たちは国を動かしてるんだから最高権力者だ、だから「官僚の無謬性」は正しいのだと言うのは誤解だ。行政府はパブリーックサーバントで日本語で公僕。公に仕える者だ。
その公は一義的には法律であり、その最上位が憲法である。国民の権利を保障した憲法に遵じて国民から集めた税金を原資に国民の奉仕するのがパブリーックサーバントの責務だ。そこには無謬性は無い。憲法を筆頭に法律に遵じていなければ全て誤りである。
では、作成された法律はどうか。法律の誤りは憲法に反していた時以外に問えない。その法律がもたらす結果については法律そのものの過ちは問えない。であれば、その法律を作った者の責任はどうか。先に書いたように、日本では内閣府が法律を提案するので法律を作ったのは実質的に官僚である。しかし、建前は国会に責任がある。このあたりの解釈は難しい。
ただ、言えることは国会議員であっても先の最高権力者では無い。代議員制度では最高権力者は国民である。故に、国民には無謬性がある。
消費税8%の決断があるかどうか
民主党政権下での三党合意(民主党、自民党、公明党)で消費税の段階的アップが合意された。それから政権交代があって、三党合意も必ずしも拘束力があるとは思えないが。特に自民党は当時の谷垣総裁一任って実質個人の約束にする手続きを踏んでいる。
景気の回復を鑑みながら決断すると安倍晋三総理大臣は言っているが、過去、世界中で消費税を上げたことにより経済の後退が起きている。イギリスはその回復にいまだに手間どっている。
実質経済成長が2.6%程度の経済統計の数値は3%消費税を上げたらマイナス成長に落ち込む。そもそも、経済ってのは金の流れる量、流量であって、供給しても蓄積されたら流れない。消費が低迷する(買い控え)ってのはまさに、流量が減ることで、それが経済を停滞させる。
経済とは各自が持つ富の蓄積量では無い。富は経済から見たら流れていないのでゼロ価値である。江戸が景気が良かったのは大阪のような富の蓄積が無く、宵越しの金は持たないって流通主体の金の流れだったからだ。大阪は富の蓄積が行われたので江戸に勝てなかったのだ。加えて、全ての富は江戸に運ばれ江戸で消費されたのだ。
「経済効果」って言葉がある。花火大会で一人3,000円の有料席を1万人に販売したとしたら、経済効果は3,000万円では無い。席を作るのに500万円、その材料を購入するのに400万円、チケットの印刷費が100万円、チケット印刷するための紙の購入が50万円、インキ代が50万円。
これを全部足した3000+500+400+100+50+50=4,100万円が経済効果だ。
なんだ、随所で二重計上してるじゃないかと思うかもしれないが、3000万円で生じた玉突きの流量が経済なのだ。だから、花火大会が無かったら動かなかった金を全部積分するのが経済効果だ。
だから、時々官僚は「5兆円の経済効果がある」と言うが、実際の予算は1兆円なこともある。彼らの実績は経済効果を生むことで評価されるのだから。
さて、経済を回復軌道に乗せる使命と財政再建に向けた消費税増税。やるかやらないか答は二者選択、しかも、10月までには結論を出さなくてはいけない。そして、その結果責任をとらなくてはいけない。
官僚は消費税増税に向けて、じわじわと安倍総理を真綿で締め付ける。G20での談話、財政再建の国際公約、なんせ、自分たちが自由になる金が欲しい。
さて、安倍晋三総理大臣にも無謬性は無い。政策に対する無謬性は国民にしか無いのだから。それ故、安倍晋三総理大臣は政治生命を賭けて決断と責任を全うすべきだ。官僚の情報操作に操られてはいけない。