図書館で扱う是非
思想信条の強い図書であっても図書館が一般に提供するのは当然だ。図書館には公共財を扱う使命があるのだから、「持ってはいるが隠す」ってのは使命に反する。
良書であるか悪書であるかの判断もしてはいけない。主観的な評価は図書館には必要ない。
外部から図書館の閲覧図書に意見を述べるのは自由だ。その意見に図書館が従わなくてはいけない義務を負うことは無い。公共財を扱う故に、個人の意見や団体の意見に従う義務がそもそも無いのだ。国民の代表である議会で議決されてあにしても、憲法で保障する主義、主張の自由に違反するのだから効力を持たない。
ただ、国民には不買運動と同じ不読運動をする権利はある。言論の自由は有るが聞く義務は無いのと同様である。で、あえて、ここで「はだしのゲン」は悪書であり、読まないようにしようと述べておきたい。特に青少年には読ませないようにしたい。
そもそも「はだしのゲン」は先に書いたように左掛かった反戦教師(その、反戦思想は教条的で間違っているのだが、それは後述)が夏休みの推薦図書なんかに掲示するものだから読まれてきた経緯がある。
左掛かった反戦教師が好んで使う思想統制の象徴的な図書が「はだしのゲン」であると言い切っておこう。
戦争責任において昭和天皇を追求する場面もあり、明らかに左掛かった反戦教師の好む内容だ。但し、この表現は「天皇の理解と敬愛の念を深める」と定められた学習指導要領に明確に違反する。体制批判が大好きな左掛かった反戦教師が好んで行う違反行為だ。
その教師達が高齢になり学校現場を定年で去っていく時代になって、はじめて「はだしのゲン」の反戦教育での利用の是非がわき上がってきた時代の変化なのかもしれない。
私はあくまで2月、8月枯れのマスコミのマッチポンプと思っているが。
大局観が無い反戦運動
戦争の悲惨さを語り継ぐって終戦記念日前の定番番組をNHKが仕掛けていたことがある。これが賛否両論あったが結局、数字が稼げなかったのか終戦特集では自然消滅した。今ではNHKも「ゼロ戦がいかに優秀だったか」なんて特集番組を終戦記念日にぶつけてくるようになったのだから。
戦争の1断面を切り取って伝えても反戦運動にはならない。何故なら、まさに1断面だから。しかも、それを個人の体験から引き出しては特殊事情でしかない。戦争を毛嫌いしても反戦運動には結びつかない。そこを左掛かった教師達は勘違いしている。
近代史においても第一次世界大戦があって戦争の悲惨さを体験した人類が、何故、再度第二次世界大戦(日本名、大東亜戦争)を起こしたのか。その歴史を学ばなくては反戦運動はスタートラインにも付けない。
ところが、その歴史を学べば学ぶほど、戦争が必然だったことが解る。これでは左掛かった反戦教師には都合が悪い。だから、「はだしのゲン」などを持ち出して自分の反戦運動を正当化しようとする。そこに潜む論理矛盾を隠蔽しているのだ。
では戦争が必然だったとして、それを回避する方策は無かったのだろうか。歴史にイフ(if)は無いと言われるが、時代が進化していなかったのが大きな要因だろう。
戦争の原因を書き始めると本が何冊も出来るが、当時の世界の文化は覇権主義であり兵器の発達が限定戦争を可能にしていた。現在の世界の文化は中国と北朝鮮を除けば協調主義である。その大きな理由は世界経済が拡大し1国だけで繁栄に立ち行かない経済事情がある。また、限定戦争が不可能な核兵器を人類が持ってしまったこともある。
第三次世界戦争が起きないのは核兵器があるからだ。核兵器が世界大戦を防ぐ平和兵器であったと言ったら言い過ぎだろうか。でも、現実は結果として、そうなっているのだが。
第二次大戦は第一次大戦後のドイツへの戦時賠償が過大すぎたこと。日本についてはアメリカのアジアでの覇権主義の目の上のタンコブであった日本をアメリカが窮鼠猫を噛むまで追いつめたことだろう。これらは協調主義を前面に出せば回避可能であった。但し、当時の世界の文化は協調主義では無かった。
そろそろ「はだしのゲン」から反戦を学ぶって時代を終わりにして良いだろう。もっと、世界文化は進化してる。戦争を防ぐには戦争を語り継ぐのでは無く、戦争を研究することだ。そこに真の平和主義が生まれてくる。
最後に「はだしのゲン」よりも100倍も伝わってくる反戦教科書は野坂昭如氏の「ほたるの墓」であることを述べておきたい。