ドラマさとうきび畑の唄は沖縄戦を描けてない

テレビ50周年ドラマ特別企画
 JASRACに利用料を払って合法的掲載の「さとうきび畑」の歌詞がここにある。
 寺島尚彦氏の作品で森山良子が1960年代にヒットさせた「さとうぎび畑の唄」をベースに終戦直前の沖縄本島(撮影は石垣島が中心)の家族の様子を描いたドラマ。夜遅いのでビデオに撮って後から見ようとも思ったが最後まで生で見てしまった。
 正直先の太平洋戦争(日本政府正式名称は「大東亜戦争」だが、以下解りやすく通称名の「太平洋戦争」と表記する)の話はもはや「夏の季節もの」の感が拭えないほど風化している。逆に言うと太平洋戦争だけが負けた故に悲惨だったって経験は通用しない時代に国民が世代交代している。日清戦争や日露戦争と同じように戦争体験ってテーマから歴史の一こまになってしまった。その意味で、このドラマが戦争体験の風化に何処まで正面から切り込むか期待していたのだが「映画 ホタル」の件で書いたように、先の太平洋戦争を伝える力が今の制作側に無いのが再確認された。
 「さとうきび畑の唄」ではCGを多用した爆弾の爆発のシーンはファイナルファンタジーに出てくる炎のようで臨場感が無い。そもそも火薬の爆発とガス等の気体の爆発では炎が違うのだが、考慮されてない。各所で描かれてる砲弾はガス爆発そのものなのだ。爆発後の煙の映像が無いので、火薬の臭いが漂う戦場って感じが出てこない。そのような臨場感へのゴダワリ、もしくは体験が無いのが制作側の伝える力の弱さに繋がっている。
 「さとうきび畑の唄」が最初に世に流れたのは1969年頃。この時代とそれから34年過ぎた現在ではやはり太平洋戦争体験は風化したと言わざるを得ない。明治維新から10年おきに戦争を行ってきた日本が最後に民間人を戦闘に巻き込んだ戦争として太平洋戦争を語るのも、もはやいくら頑張っても世代の風化と時代の変化で無理なのではないかと思う。その意味でこのドラマ「さとうきび畑の唄」も家族のドラマとして見るべきなのだろう。これを「反戦ドラマ」と呼ぶのは少しおこがましい気がする。僕の持論だが、戦争の悲惨さを伝えても戦争は防げない、戦争に至る過程を伝えてこそ平和運動なのだ。いかに戦争に反対したか、これを描かなくては反戦ドラマには成り得ない。この考え方が「さとうきび畑の唄」のドラマにも無かった。

キャスティングと時代考証に違和感
 明石家さんまのキャラを出しすぎだと思うが、それ以前に沖縄で関西弁ってのが違和感があった。また、沖縄本島を想定しているが撮影が西表島なので映像から伝わる地上戦の様子が分かりにくくなっている。
 沖縄の地上戦は1945年4月1日の米軍の嘉手納への上陸から始まる。ただこれは無血上陸で当時の米兵はエイプリールフールだと言い合っていた。嘉手納で沖縄本島の守備隊を南北に分ける作戦で上陸したのだが、ドラマで描かれている様子が南側と北側の混在になっている。
詳しい情報はhttp://www.qmss.jp/qmss/pac-war/okinawa.htmここに有る。もっと詳しいのはhttp://kyoto-getto.hp.infoseek.co.jp/okinawa/war/war_idx.htm#war2ここだろう。沖縄戦を語り継ぐのはもはやドラマでは無くてインタネなのだとつくづく感じさせられる。
 「さとうきび畑の唄」は戦争の悲惨さをごった煮し過ぎる傾向がある。例えば、サイパン陥落で多くの民間人が飛び降り自殺(自決)したバンザイクリーフの話はこのドラマに加えるべきでは無い。沖縄戦ではあのような事があったとは聞いていない。もっと沖縄戦に特化したければ仲間由紀恵が演じる平山紀子が軍隊と民間人が同居する洞穴で「軍隊は我々を守りに来たんじゃないの」と叫ぶ部分を明確にすることだろう。
 また台詞回しで隠れているが平山紀子を「スパイ」呼ばわりしたのは当時の軍隊が首里を開けわたし、南下して自然洞窟(これを沖縄では「ガマ」と呼ぶ)に立てこもり避難していた住民を追い出し、食料を強奪したり「スパイ容疑」で虐殺したり、集団自決を迫ったりと暴れ回った事実の片りんなのだ。
実際、戦闘終了後住民の半数は米軍より日本軍が怖かったと証言している。沖縄戦を描きたいのならば、軍隊の理不尽さが一般住民に危害を加えた事実を伝えなければならない。
 また「さとうきび畑の唄」なので青々と茂ったさとうきび畑(撮影は石垣島のようだが)が出てくるが、これは唄の歌詞に忠実ならば当時のさとうきび畑は焼け野原でなければならない。
 平和を象徴するのは大きく育った「さとうきび畑」を渡る風であり「ざわわ、ざわわ」のリフレインなのだ。ラストシーンで現代役の上戸彩が曾祖父のライカのカメラに付いていたお守りをケイタイに付けてケイタイで写真を撮るシーンは苦笑せざるを得ない。これなら、ラスト10分を裂いて、森山良子か新垣勉による「さとうきび畑の唄」の全歌詞を11番まで唄わせたほうが良かった。
 終わりよければすべて良しと言うが、最悪のラストシーンだった。しかも、上戸彩はソフトバンクのCMキャラだし。


強く描く努力をしたら良い出来になった
 やはりどこかで作る側の力量の限界が出ている。バンザイクリーフの表現も唐突な画像だった。なぜ、自決と考えたのか、それが「天皇陛下のため」と直接的に結びつかないのが沖縄戦の特徴だ。少なくともサイパンでは多くの犠牲者は軍属だったので、ある意味準軍隊であったが、沖縄ではまったくの市民、民間人なのだ。その人々が「天皇陛下のため」と断崖から投身して自決する説明が出来ていない。だから、あのシーンは辞めるべきであった。もし織り込むなら軍部が強要した自決って点を強く描くべきであった。正直あのシーンは理解不能だった視聴者が多かったのではないだろうか。サイパン故に自決しなければならなかった理由を説明できるが、沖縄戦では説明出来ないだろう。ここで5分尺を無駄使いしている。
 明石屋さんまのラストも南部14年式拳銃を突きつけられるシーンで終わっている。そして「戦死」となっている。ここも描き方が弱いと思う。戦争は殺されるだけで無く殺すことも強要されるのだって面を描かなければならない。
「さとうきび畑の唄」を聞くと自然は戦争が無かったかのようにさとうきびの葉を風で揺らすが、この地面の下には多くの人の命が埋められている、そんな生と死の対比が平和な時代故に戦争を忘れてはいけないって反戦歌なのだ。そこには殺されるだけでは無くて、殺す話も入れるべきだ。それが戦争なのだから。
 負傷した落下傘降下の米兵パイロットを殺すことを強要された明石屋さんまが「俺には出来ない」って泣き叫ぶ後に銃を奪った隊長が「こやってやるんだ」と米兵を撃ち殺すシーンが有って良いと思う。それが戦争なのだ、みんなキチガイになるんだって訴えが欲しかった。
 黒木瞳はやはりスッチーが似合う。そもそも出産って役は42歳には難しいんじゃないか(笑い)。上戸彩が母親役でも良かったと思う。坂口憲二はどうなってしまったのか。熊本の連隊に行ってその後の消息不明。オダギリ・ジョーもチョイ役だなぁ。勝地涼の役は通信兵だが、中学生で構成された「鉄血勤皇隊」を想定しているのだろう。それが最後は爆弾を抱えて米軍の戦車に飛び込む役割だが、これも上手に描かれてるとは言い難い。
そもそも、正規兵では無いのだから「天皇陛下から貸与された武器」である爆弾を抱えて戦車に飛び込むなんて訓練は受けていない。しかしドラマとして嘘も許されるとしたら、米兵の十字砲火を浴びるよりは戦車に踏まれて死ぬほうが沖縄戦がより伝わるのではないだろうか。
 沖縄の地上戦で亡くなった方は民間人15万人弱、兵士7万5千人弱、外国人1万5千人弱。この外国人の中には当時の韓国からの強制連行者約1万人の一部が含まれる。90日間におよぶ長期持久戦が住民も巻き込んだ戦争となり結局日本本土は8月15日にあっさりと無条件降伏をしたにも関わらず、沖縄の終戦は9月7日に調印されるまで続いた。(もっとも、本土の終戦も9月2日に戦艦ミズーリ上で調印された休戦協定が国際的な取り決めなのだが)あの風光明媚な沖縄の青い海を、あの沖縄の土のように赤く染めて人々が亡くなった。それを平和の時代の側から見るのが「さとうきび畑の唄」だ。
 当時の軍隊が住民を犠牲にして守りたかったものは何か。それは国体護持の一点だろう。どうせ勝てないのは分かり切っていた。戦争終結の事由として沖縄は捨て石になった。沖縄が占領されたら天皇も考えるだろうって扱いだ。そんな沖縄の人々の怒りが伝わってくるような作りにして欲しかった。
 ドラマのTBSと言いながら年々レベルは下がっている気がするのは僕だけだろうか。ETVには見るべき作品が多いのだが。NHKは正面から反戦をやることは無いからなぁ。

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2003.09.29 Mint