食材偽装表記なんて昔からの日本文化だろう

「秘伝のタレ」が許される
 まず断っておくが私はグルメである。その精神は「グルメとは、何を食べるかでは無くて、誰と食べるかだ」である。その意味で私は材料が何かは全然価値観を持たない。旨いか不味いかしか価値判断を持たない。加えて外食が楽しかったか楽しくなかったしか価値判断を持たない。私の過去の最高のグルメは大学時代に寮からアパートに引っ越して、彼女と引っ越し祝いを兼ねて食べた鮭缶である。これを超えるグルメ食品に齢60年を過ぎても巡りあっていない。
 これは30代前半に有名なソムリエが居ると言われたレストランで食事した時に「悟った」。出されたモーゼルの白ワインが不味かった。「お客さまの嗜好に合わないのかも」とソムリエは引き下がって交換してくれたが、実は保管が悪くて酸化していたと食事後にソムリエが謝罪してくれた。そんなもんだ食材なんて。
 焼き鳥やウナギの蒲焼きで店独特の「秘伝のタレ」が使われる。正直言って「秘伝のタレ」は食品表示法違反だろう。現に、それでアレルギー反応を生じた子どももいるのだから。
 基本的に、外食産業はビジネスである。そこに家庭の主婦が苦労して調理する精神を求めてはいけない。外食産業には調理に「愛」は無い。調理に「ビジネス」しか無い。それは当たり前のことだ。
 いかに「売るか」が勝負で、愛情なんてのを料理に込めるのはジャンルが違う、砲丸投げとやり投げくらい違う(あ、近代五種で同じか!)
 外食産業のメニューは「売らんがな」の精神で書かれている。それを客は容認してる。そもそも商売の基本である「契約」の概念からすると「時価」なんてのは契約を放棄した無法なメニュー表示だ。即刻取り締まるべきなのだが、そこには日本の文化が潜んでいる。だから、外食産業のメニュー表示は食事を楽しむ「粉飾」が許されてきたのだ。

サービスとは何か?
 顧客の満足をどのように引き出すかは演出のテクニックである。ホテルで食事って場面では往々にして誰かが誰かを「接待」て事が多い。この場合、父親が家族と食事って場面まで含めて考えている。ここで食事が出来るお父さんって凄いってことも含めての「接待」である。
 で「接待」は食事だけに着目すると莫大な無駄使いである。
 学生時代のアパート暮らしから体感したのは「飯は自分で作って食べるものである」て基本的考え方だ。実は食材を購入して食べるってのは最近の事なのだが、基本に立ち返れば「飯(食材)は自分で手に入れて自分で調理する」ってのが人類の宿命だった。だから、人類は狩猟民族と農耕民族に分化した。
 やがて、自分で手に入れなくても誰かが提供してくれる文化が始まる。それは貨幣って価値観を共有することで発生した。
 今の産業分類で言う1次産業、2次産業、3次産業の出現だ。古代の文明では3次産業(それは奴隷で賄われていた)はほとんど見られないのだが現代は就労人口の50%以上が3次産業になっている。
 サービス業と分類される3次産業はサービスの質を問われる産業だ。そのため、サービス競争が生まれる。
 最近の話だが、職場の仲間と居酒屋に行ったら「飲み放題にしますか?」と聞かれて、それほど飲むメンバーじゃなかったので要らないと言ったら「飲み放題に1000円追加のSPってのがあるのですがどうですか」と言われてスペシャルならリーズナブルだかいいんじゃないってことで追加してもらった。
 で、2時間の飲み放題と思っていたら1時間半で「ラストオーダーです」と言われた。。実はSPとは「ショートプログラムで、通常2時間の飲み放題を1時間半にしたものなんです」と言われた。
 ショートプログラム!、NHK杯のフィーギュアスケートかい!と思ったけど、所詮サービスってのはこのような仕組みで提供されるのだから事前に知らなかったこちらに落ち度があったのだ。


騙されて満足する文化
 「心地よく騙される」って文化は世界共通に有る。そもそも演劇とか小説って事実を語っていない。フィクションの世界だ。これをマスコミは「捏造だ!」と糾弾しない。食品表示をだけ集中的にマスコミは糾弾する。では、食材を利用して「グルメ」文化を作ったマスコミに責任は無いのか。
 別項で書くつもりだが、調理の現場の「調理長」を中心にした封建制度に着目してるマスコミは少ない。調理長が「芝エビ」と言えば納品書がなんであれ「芝エビ」なのが調理の現場の掟だ。
 偽装でもなんでも無い調理長は「芝エビと書くとお客の満足度が上がる」と言ってはばからないのだ。お客も「芝エビを食べた」と満足するのだ。それが、日本の文化だ。
 有名な落語に「目黒のサンマ」って噺がある。この「目黒」は産地でもなければ漁獲地でも無い。そもそも、魚類には「産地」なんか無いのだ。根室のサンマは根室市で陸揚げされたサンマであって、その後のサンマの流通をブランドにして根室のサンマと表示された商品になる。産地なんかでは無い。
 昔、「十勝ワイン」がネーミング詐称で「トカップ」に変更になった事がある。そもそも「十勝」ってのは市町村名では無く地域名だ。その地域名が付いたワインが実は輸入品、しかも防腐剤混入だったので問題視された。「十勝ワイン」はブランド名であって商品の原材料の出何処では無いのだが、消費者に誤解を与えるってことで名称の変更を求められた。しかし、材料が何で有れ、「北海道の市町村も頑張っているなぁ」って気持ちで多くの消費者は十勝ワインを楽しんだのではないだろうか。
 日本文化の「建前」ってのは、示された条件を、有る意味、無条件で受け入れることが「粋」と感じる東京(江戸)文化にあるのではないだろうか。
 だから、法人の引越祝いなんかで胡蝶蘭を送るときに一株一万円の公定価格が存在するのだろう。贈られた品物の価格が明白になる商習慣が日本では求められる。それは文化だ。

「騙された」と言うのは恥だ
 先に書いたように私は「何を食べるか」に価値観を持たない。だから、食べるもののブランドには拘りが無い。誰と食べるかに価値観を持つ。だから、食材が偽装されてようが何だろうが「美味しい雰囲気で食べられる」しか気にしない。
 これも自虐ネタだが、大学を卒業して就職したのが札幌で、当時の遠距離交際の彼女が札幌雪祭りを見てみたいと札幌に出てくることになった。当日、出会って雪祭りを見物して、食事をしようと思っても何処も満席で食事が出来ない。そこで、当時の狸小路4丁目のアルタビルの地下に有った吉野屋で牛丼の並を食べた。
 そこの親父はガンコで「スプーンは出さない方針だから」ってことで箸で食べたのだけれど彼女にはかなり食べずらい様子だった。当時は電子メールとかスマホが無い時代で、戻った彼女からの連絡は途絶えた。ま、価値観が違うのかと思ったけれど、さすが札幌雪祭りと吉野家の牛丼はミスマッチだったよなぁと深く反省した。
 外食産業でなんとか価値観を高めようと食材の希少価値を訴えるのは雰囲気を高める「装飾」であって「粉飾」では無いと思う。
 そもそも「芝エビ」なんて簡単に手に入らないって事実を知識として持つべきだろう。外食産業で高い値段には理由が有るってことを食材に求めるのは無理がある。そんな嘘で騙される客を相手にしている卑しさを各店舗に感じる。
 客も店も納得ずくのメニュー表示だ。本当に「芝エビ」なのかは自己責任だろう。納得を人に委ねる風潮は民主主義の陥るワナだ。自らが考える力を持って外食産業との付き合い方を考えるべきで、それは究極の所「いかにハッピーにしてくれるか」だ。
 自分で考えないからマスコミの「情報操作」に乗らず真実は自ら考えることが必要だ。騙されたのは自己責任、それをマスコミの垂れ流し報道に依存した結果だと認識すべきだろう。

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2013.11.09 Mint