CPBS(コピペ脳症候群)の集団感染
CPBS(コピペ脳症候群)は感染力が強い病気である。だから、大学などでは一人のCPBS(コピペ脳症候群)のリポートが合格点をもらうと急激に感染してクラス全員が罹患する。また潜伏期間が約1年なので次年度にも潜伏期間を過ぎた新たな発症が見られる。ただ、一部の講義についてはCPBS(コピペ脳症候群)対策済みのものがあり、ここでは強烈な副作用を伴いながらCPBS(コピペ脳症候群)は完治する。
とまぁ、大学の講義での遊び感覚のうちは良いが社会全体にCPBS(コピペ脳症候群)が蔓延しているのが今の日本の現状だ。一部には「マスコミのミスリード」などと言われるが実態は「マスコミのミスリードを許す、物事を考えない丸呑み群衆」にこそ下地がある。
例示にはいとまが無い。
例えば「情けは人の為ならず」。これは半分の人が「情けは人の為にならない」と理解している。この狂歌には下の句があって、全体で「情けは人の為ならず、回り回ってみんな我が為」が出所である。つまり、人に情けをかけるのはその人にかけるのでは無く、回り回って自分に還ってくるって意味だ。
「這えば立て、立てば歩けの親心」もそうだ。冗談めかして「孫がはいはいしてねぇ」に対して使うが、この下の句は「己に積もる歳を忘れて」だ。つまり、当人に対しては大変失礼な用語用法なのだ。
自分で考える人が少なくなった現状ではCPBS(コピペ脳症候群)は国民病として蔓延しているのだろう。
小泉純一郎氏が述べているが「世の中に10人居たら、3人は賛成、2人は反対、残りの5人は無関心」が現状だ。だから森派の森善郎元総理の「選挙に行かないで寝ていて欲しい」なんて失言(本音)がでる。小泉純一郎氏が郵政選挙に打って出たときのB層とは、まさに、このCPBS(コピペ脳症候群)の集団を指したものだ。
「無関心なら無関心のままで居てくれて良い。ヘタに無関心層を反対層に導かないことだ」。これが小泉純一郎氏の選挙対策だったのだ。
情報リテラシーとは疑うこと
すっかり死語になっているが、情報化社会を生き抜くために「情報リテラシーの向上」が望まれると言われてきた。リテラシーに該当する日本語は無いが、あえて雰囲気を含めて日本語に訳すと「感性」であろう。情報に接するときに情報とは何かの感性が求められる。
新聞社の大馬鹿運動に「新聞を教育の場に」(NIE運動)があるが、そもそも新聞とは政党の機関誌に端を発して立ち位置を明確にした論断の道具である。これを知識を吸収する段階の義務教育の場に持ち込むのはお門違いだ。国民を政党の機関誌で洗脳するのでは新聞赤旗と同じである。国民の感性を洗脳する行為だ。
では「情報感性」とはいかなるものか。玉石混合の情報の中から真実を見つける能力だが、ま、これは大変難しい。玉石混合の「全ての」情報を得ることは現実的に不可能だ。「無い」を証明するのは「悪魔の証明」と呼ばれるように不可能なのだが、同じように「全ての」を証明するのも「悪魔の証明」で不可能である。
で、あれば、「情報感性」とはお題目で絵に描いた餅なのだろうか。
実は情報感性を高める入り口に「全ての情報は、まず、疑ってかかる」って手法がある。
前にも書いたが白洲次郎が日本の教育が会わずに英国のケンブリッッジに留学した時に教授からリポートの提出を求められ、英語には自信があったので数枚書き上げて提出した。教室で教授に呼ばれて「白洲、君のリポートは良くまとまっている。しかし、書かれている内容は私が教えたことだけだ。白洲。君は講義を受けて何を考えたのかね。考えが書かれていないこのリポートでは及第点はあげられない」とリポートを突き返してくる。
そのリポートを受け取った白洲次郎は自席に戻るとそのリポートを破り捨てながら「ここには俺の求めていた教育がある」とつぶやく。
教授は皆に向かって更に続ける。「伝えたことに反論するのがリポートだ。反論しようと、みなの小さな脳みそ(知識)は一生懸命に考える。そして、少しだけ大きくなる」
情報リテラシーを向上させるには「疑い、反論する」にはどうしたら良いかを「考える癖」を付けることだ。情報化社会で埋没しないためには小泉純一郎氏の言う「黙っててくれ」に反論し、誰かの考えをコピペするのでは無く、自分の小さな脳みそで考え、かつ、他人の小さな脳みそが考えたことと比較検討することだ。
CPBS(コピペ脳症候群)の特効薬はこれしか無い。
原発即時停止なんて暴論を納得して受け入れてる層はCPBS(コピペ脳症候群)感染者だ。今そこにある使用済み核燃料、溜まりに貯まった40トンを越えるプルトニウムは「無かったこと」に出来るはずもない。その答えはと問われてスマホで検索するようではCPBS(コピペ脳症候群)もかなり重傷だ。
まず、自分の小さな脳みそを使うことだ。