コピペ脳症候群の日本社会

略称を決めておく
 コピペ脳症候群はCopy&Paist Brain Syndromeと英語に変換されるので、以後CPBS(コピペ脳症候群)と著すことにする。
 小保方氏のSTAP細胞関連の論文にコピペがあるとか、画像の改竄があるとかの話はここには関係ない。そもそも、70枚もある画像の1,2枚を取り違えたのが「悪意を持った改竄」とは判断できない。同じく、画像を強調するために加工するのも、論文の本論とはかけ離れた部分であり「悪意を持った捏造」とも考えられない。
 そもそもSTAP細胞の存在が証明されれば「何のために改竄や捏造するのか」はその目的を失うわけで、論理矛盾を含んだ最終調査結果への反論を黙殺して人々の記憶から忘れられる時を稼ぐ理研の対応はここで書く価値も無い。
 数年前から大学で学生にリポートを提出させてもインタネからのコピペで作って来る学生が増えてきた。特に既知の部分をコピペするのは問題無いが、リポートの最後の各自の考察部分までコピペしてくる学生には不可を通知している。
 リポートを課する目的は「自分で考えること」である。普段の授業では一方的に講義を聴くだけなので、講義を受けて何が身に付いたかを各自が確認するためにリポートの提出を義務づけている。だから、結論部分しか読まないので他の部分がコピペかどうかはあまり気にしない。
 問題は個々人が考えて得なければならない自分の結論を他人から単に文章だけでは無く、思想信条までコピペしてしまうことだ。これをCPBS(コピペ脳症候群)と呼ぶことにする。人間として自ら考えることを放棄して他人の考えを無条件に受け入れる、つまり脳が洗脳された状態がCPBS(コピペ脳症候群)である。もちろんかなり重症な精神病である。
 パスカルは「人間は考える葦である」と言ったがCPBS(コピペ脳症候群)に罹患すると「自分は考えない足である」となってしまう。「カモシカのような足」ならまだ躍動できだが「考えない足」は社会の足を引っ張る足である。

CPBS(コピペ脳症候群)の集団感染
 CPBS(コピペ脳症候群)は感染力が強い病気である。だから、大学などでは一人のCPBS(コピペ脳症候群)のリポートが合格点をもらうと急激に感染してクラス全員が罹患する。また潜伏期間が約1年なので次年度にも潜伏期間を過ぎた新たな発症が見られる。ただ、一部の講義についてはCPBS(コピペ脳症候群)対策済みのものがあり、ここでは強烈な副作用を伴いながらCPBS(コピペ脳症候群)は完治する。
 とまぁ、大学の講義での遊び感覚のうちは良いが社会全体にCPBS(コピペ脳症候群)が蔓延しているのが今の日本の現状だ。一部には「マスコミのミスリード」などと言われるが実態は「マスコミのミスリードを許す、物事を考えない丸呑み群衆」にこそ下地がある。
 例示にはいとまが無い。
 例えば「情けは人の為ならず」。これは半分の人が「情けは人の為にならない」と理解している。この狂歌には下の句があって、全体で「情けは人の為ならず、回り回ってみんな我が為」が出所である。つまり、人に情けをかけるのはその人にかけるのでは無く、回り回って自分に還ってくるって意味だ。
 「這えば立て、立てば歩けの親心」もそうだ。冗談めかして「孫がはいはいしてねぇ」に対して使うが、この下の句は「己に積もる歳を忘れて」だ。つまり、当人に対しては大変失礼な用語用法なのだ。
 自分で考える人が少なくなった現状ではCPBS(コピペ脳症候群)は国民病として蔓延しているのだろう。
 小泉純一郎氏が述べているが「世の中に10人居たら、3人は賛成、2人は反対、残りの5人は無関心」が現状だ。だから森派の森善郎元総理の「選挙に行かないで寝ていて欲しい」なんて失言(本音)がでる。小泉純一郎氏が郵政選挙に打って出たときのB層とは、まさに、このCPBS(コピペ脳症候群)の集団を指したものだ。
 「無関心なら無関心のままで居てくれて良い。ヘタに無関心層を反対層に導かないことだ」。これが小泉純一郎氏の選挙対策だったのだ。


情報リテラシーとは疑うこと
 すっかり死語になっているが、情報化社会を生き抜くために「情報リテラシーの向上」が望まれると言われてきた。リテラシーに該当する日本語は無いが、あえて雰囲気を含めて日本語に訳すと「感性」であろう。情報に接するときに情報とは何かの感性が求められる。
 新聞社の大馬鹿運動に「新聞を教育の場に」(NIE運動)があるが、そもそも新聞とは政党の機関誌に端を発して立ち位置を明確にした論断の道具である。これを知識を吸収する段階の義務教育の場に持ち込むのはお門違いだ。国民を政党の機関誌で洗脳するのでは新聞赤旗と同じである。国民の感性を洗脳する行為だ。
 では「情報感性」とはいかなるものか。玉石混合の情報の中から真実を見つける能力だが、ま、これは大変難しい。玉石混合の「全ての」情報を得ることは現実的に不可能だ。「無い」を証明するのは「悪魔の証明」と呼ばれるように不可能なのだが、同じように「全ての」を証明するのも「悪魔の証明」で不可能である。
 で、あれば、「情報感性」とはお題目で絵に描いた餅なのだろうか。
 実は情報感性を高める入り口に「全ての情報は、まず、疑ってかかる」って手法がある。
 前にも書いたが白洲次郎が日本の教育が会わずに英国のケンブリッッジに留学した時に教授からリポートの提出を求められ、英語には自信があったので数枚書き上げて提出した。教室で教授に呼ばれて「白洲、君のリポートは良くまとまっている。しかし、書かれている内容は私が教えたことだけだ。白洲。君は講義を受けて何を考えたのかね。考えが書かれていないこのリポートでは及第点はあげられない」とリポートを突き返してくる。
 そのリポートを受け取った白洲次郎は自席に戻るとそのリポートを破り捨てながら「ここには俺の求めていた教育がある」とつぶやく。
 教授は皆に向かって更に続ける。「伝えたことに反論するのがリポートだ。反論しようと、みなの小さな脳みそ(知識)は一生懸命に考える。そして、少しだけ大きくなる」
 情報リテラシーを向上させるには「疑い、反論する」にはどうしたら良いかを「考える癖」を付けることだ。情報化社会で埋没しないためには小泉純一郎氏の言う「黙っててくれ」に反論し、誰かの考えをコピペするのでは無く、自分の小さな脳みそで考え、かつ、他人の小さな脳みそが考えたことと比較検討することだ。
 CPBS(コピペ脳症候群)の特効薬はこれしか無い。
 原発即時停止なんて暴論を納得して受け入れてる層はCPBS(コピペ脳症候群)感染者だ。今そこにある使用済み核燃料、溜まりに貯まった40トンを越えるプルトニウムは「無かったこと」に出来るはずもない。その答えはと問われてスマホで検索するようではCPBS(コピペ脳症候群)もかなり重傷だ。
 まず、自分の小さな脳みそを使うことだ。

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2014.04.25 Mint