日本の民主主義の成長を阻害する各新聞社

とりあえず新聞を俎上に
 マスコミ全体について語りたいのだが、あまりにも範囲が広すぎて悪の根源を具体的にすることが難しい。また、放送法には「不偏不党の報道」が明記されているのでマスコミも同じくあるべきだと考える人が多いようだが(中部大学の武田先生もその呪縛にかかってるようだが)、実はマスコミには不偏不党なんか法的には求められていない。もっと言えばタブロイド版のような立ち位置の解らない瓦版より、右もしくは左と自らの立ち位置を明確にしたもののほうが扱いやすい。
 そもそも、歴史的に新聞は政治運動から発生した政党紙が原点であり、どの新聞社もルーツを辿れば現在の日本共産党の機関誌「赤旗」と最初の発刊の違いは無い。主張するために創刊するってのが旧来の新聞の基本だ。それが、やがて商業的に成り立たなければ国民に正しく情報を伝えられないって歪曲が始まって、現在では儲からなくては良い新聞を発行できないまで偏向してる。
 良い記事を提供するには腕の良い記者が必要でコストがかかる。だから、収益がしっかり確立してこそ良い記事を国民に提供できるって妄想の鉄壁の岩盤(日本語が変だが)を築いてその中に「見えない、言えない、聞こえない」と引きこもったタコのようなものが今の新聞の実態だ。
 百歩譲ってその論理が正論だとしても、日々行っている新聞発行活動は決して「良い記事を提供する」には繋がっていない。一定の紙面を埋めるために広告との面積のバランスを考えながら、今日は空いているので「ヒマネタ」を入れようって編集だから月刊誌並みの情報の遅れがある。少なくとも「記事を起こして、印刷して、トラックで輸送して、新聞少年(最近は主婦が多いが)が宅配」なんて情報伝達方法は21世紀的では無い。まずは、その事実から掘り下げることにしよう。

アメリカから10年遅れている日本の新聞業界
 「アメリカ崇拝かい!」とツッコミを入れられるかもしれないが、アメリカの民主主義「制度」には学ぶところが多い。国際的に通用する民主主義制度だ。日本の民主主義は制度そのものが鉄壁の岩盤(日本語が変だが)で、そもそも選挙制度としてフランスで「どぶ板選挙」が出来る訳がない。つまり、日本選挙村でしか通用しないのが日本の民主主義の「制度」だ。あくまで、制度についての話に限定している。だから、アメリカの民主主義制度を参考にするのは無駄では無い。
 アメリカでは新聞の賞として最高峰と言われている「ピューリツァ賞」がある。部数獲得で低俗化した新聞社の経営者だったピューリツァが、自戒の意味も込めて本来新聞はどうあるべきかと考えて大学にジャーナリスト養成講座を作った。当時(1890年代)は新聞記者は教えて育つものか?との意見が多かったが「水泳が教えられるならジャーナリズムも教えられる」と講座がスタートした。
 この講座の卒業生の間からピューリツァの精神を生かした「ピューリツァ賞」が制定され、アメリカの新聞の最高権威な賞と位置づけられている。日本にも新聞協会賞ってのがあるが、この両者が表彰した案件のタイトルを見比べると大きな違いがある。
 ピューリツアの目指す新聞記事の最高峰であるスクープ記事とは「記者がそれを書かなければ誰も知ることが出来なかった記事」である。日本の新聞協会賞の選ぶスクープ記事は「誰よりも早く伝えた記事」だ。
 この違いは、前者は記者が書かなければ国民が知ることが出来なかった情報を扱うのに対して後者は「明日になれば誰でも知ることが出来る情報」を扱うだけだ。そして、前者はコツコツと調査し組み立てて行かなければ記事が作れないが、後者はリーク情報に触れる機会を多く持っていればできる。特に日本的なスクープは「特オチ」と言って他社が書いたのに自社が書かないとキャップに記者が怒られる(そういう社風なのだ)ので、誰かが抜け駆けしないように記者クラブを組織し、最後は取材合わせしてどの新聞も翌日の朝刊は同じ記事って弊害を招いてる。
 読まされる国民にはたまったものでは無い。
 そこには「国民に良質な情報を届ける」なんて使命感は無い。新聞社村の掟が最優先される社会の産業廃棄物と化した記事しか読者に伝わらない。


新聞のマスコミ支配は鉄壁な岩盤
 放送局の話は今回はしないが、新聞社の多くは配下にテレビ局を抱えている。この方式が日本のジャーナリズムの発展に良かったかどうかは議論する必要があるだろう。新聞社は腰に鈴を付けて走り回って配る号外が最速記事だが、放送はカメラさえ持ち込めば現場から瞬時に中継を行って伝えることができる。
 新聞の「記事を書いて印刷して配達して家庭に届ける」ってスピード感の無さを補填する機能がテレビ局にはある。これを相互の競争関係に置かなかった故に、実は新聞のテレビ化が進み、先のピューリツァの言う「記者が書かなければ誰も知り得なかったスクープ」のジャーナリズムから日本の新聞はどんどん遠ざかっていく。
 それを如実に著してるのが新聞社のインターネットに対する保守的で引っ込み思案で食わず嫌いの経営姿勢だ。
 実は先のピューリツァ賞を最近はネット新聞が受賞していることが多い。新聞の新しい媒体としてネット新聞がアメリカでジャーナリズムの一翼を担っているのだ。優秀な記者が一人居ればスクープ記事(アメリカ的スクープ記事)をネット新聞で広めることが可能だ。先のスノーデン事件は今までは組織で取り組むことをネットを利用して少人数で、時には一人で凌駕できることを証明している。
 そもそも宅配する新聞の屋台骨を支えているのは印刷紙面とチラシだ。これには膨大なコストがかかっている。守秘義務違反かもしれないが、あえて書くと、新聞に折り込まれるチラシの価格は10円/枚になる。この金額を販売所と新聞社で分けあう。自宅に届く新聞に何枚チラシが折り込まれてるだろうか。10枚なんて日はざらだ。朝刊1部100円の原価がチラシ折り込みで+100円され200円の媒体に化けるのだ。こんなおいしい商売は無いから鉄壁の岩盤になり「新聞の宅配堅持ぃ!」のシュプレキコールとなる。
 しかし、われわれ読者から見れば、膨大なコスト(それで飯を食っている人々が居ることは理解するが)をかけるよりも、各家庭に無償でタブレット端末を配ってくれたらそれでニュースを読むのに事足りる。しかも、そのニュースがテレビと違ったジャーナリズム精神で提供されるなら読む価値は十分にある。今は、ラテ欄以外はテレビで足りるのだ。いや、最近のデジタルテレビでは番組表まで出るので新聞のラテ蘭は要らない。読む場所は地方版くらいしか残らない。

廉価で有効な情報を扱う新聞を
 「情報は民主主義の糧である」と述べたのはアメリカの大統領であったジェファーソンであるが、少なくともアメリカでは民主主義に情報は欠くことができないと考えている。そのために国民にとって良質の情報(政府が隠そうとした情報も含む)を伝えるジャーナリズムはローコストで国民に民主主義の糧を届ける機能を担っている。
 山林資源を浪費して紙をつくり、インクで印刷してトラックで運んでチラシを挟んで宅配する新聞紙はこのままでは続かないだろう。広告利益の最たるもののチラシも昨今は最安値チラシ検索サイトなんかが利用されている。
 年齢を重ねて感じるのは、自分のリタイヤが市場の消滅より前で良かったって安心感だ。自分の所属する業界が時代の変遷とともに無くなってしまった人の話は多い。炭坑なんかで石炭を掘っていた人は人生の途中で市場を失った人たちだろう。
 今の新聞社経営者は紙の新聞の読者と同じように1年で1歳の年齢を重ね、読者がリタイアする頃には自分もリタイアするから「鉄壁の岩盤」を守っていけばそれで良いだろう。
 しかし、若くして新聞記者に(ま、新聞社に就職したサラリーマンだが)なった者は着々とリタイアして行く「紙の新聞の読者」が居るので自分のリタイア以前に市場が無くなる。
 彼ら、彼女らは今一度、自らのジャーナリストの志の原点に立ち返ってみよ! 民主主義の糧を提供するジャーナリストになるにはどうすれば良いかを。
 そこから日本の民主主義「制度」村の変化も始まる。
 このままでは日本の新聞社は福島第一原発の二の舞だ。閉鎖的な少人数の村は自己完結な世界に陥る、いまいちどジャーナリズムを取り巻くステークホルダーは誰かを考えると答えが得られるはずだ。

今回参考にささえてもらった書籍
メディアのあり方を変えた 米ハフィントン・ポストの衝撃
牧野洋 (著)
内容(商品説明より)
5月から朝日新聞の協力のもとサービスが開始された「ハフィントン・ポスト(HuffPost)」日本語版。
アリアナ・ハフィントンが2005年に立ち上げ、オバマ大統領、ヒラリークリントンなど有名な論客を揃えることで圧倒的な知名度を獲得し、2012年にはブログでは初のピューリッツアー賞を受賞した。
アメリカにおいてはリーマンショックを前後して既存の大手新聞メディアが収益減のため、縮小や撤退が相次いできたが、代わりに注目を浴びてきたのが旧来の新聞が果たしてきたWatch Dog機能を持つこうしたWebメディアだ。
こういったWebメディアが日本に上陸することにより、日本の既存メディアがどのように変わる可能性があるのか、アメリカの事例を参照しつつ紹介していく。

button  コピペ脳症候群の日本社会
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2014.06.04 Mint