北海道の鉄路維持に消極的な北海道新聞社

立ち位置が定まらない
 新聞の成り立ちは政党の機関紙なので、その立ち位置は明確になっていた。ところが、大正デモクラシーの時代から新聞は「公正な報道」を標榜するようになった。実態は変わらないのだが、新聞は立ち位置を明確にして情報を伝えるのが本来の姿だ。
 歴史的にも新聞の報道の実態は現在の「赤旗」と同じなのだが、何故か各新聞社は「公明正大」なんて言って「個性」を覆い隠してる。
 筆頭は朝日新聞社で、報道の姿勢に「公明正大」と表示している。それは歴史的な経緯を踏まえれば新聞の「死」を意味する。新聞とは自らの主張を掲載する「瓦版」であるべきで、歴史がそれを事実として認めている。新聞を読む側が新聞の立ち位置を忖度するのに、新聞社が「公明正大」と叫ぶのは自己否定だろう。
 実は我々が日々接するテレビ放送が資本関係から親会社である各新聞社によって情報の偏りがあることが問題の本質に有る。
 新聞は憲法で表明されいてる「言論の自由」の配下にある。一方、公共の資源である電波を用いたテレビやラジオは「放送法」の配下にある。どちらの法律が上位かと言えば憲法が上位なんだが、放送法は影響力の強大さ故に情報伝達の方法を規定している。いわゆる「公明正大」、「中立報道」が法的に求められているのが「放送」ってメディアの宿命だ。法律であるから違反すれば放送免許の取り消しって制裁もある。
 しかし、資本関係や人的関係も含めて新聞社の、ある意味「配下」にある放送局は新聞社に許されて放送法で許されない一線を逸脱することが多い。ま、「サンデーモーニング」なんかのヒョーロン家(コメンテータ)の出身母体を知ると明らかなのだが、放送法配下のテレビ番組に新聞の論理で乗り込んで来て見解を述べる。しかも、中立を保つコメンテータは不在で、一方的に新聞の論理で論旨を電波に乗せる。
 明らかに「報道の自由」と「放送法の立法の趣旨」を逸脱した行為なのだが「放送法」は悪法で自らの意見は「表現の自由」に起因していると、その正当性を主張する。
 それなら、「放送法」を改正する運動を起こせば正当化できるのだが、発言の場を失いたくないので、本質論には口を出さない。そのような歪な報道姿勢が結局国民のマスコミ不信を招いているのを個々のコメンテータは気が付かないまま我が世の春を謳歌する「お花畑」ばかりがテレビを賑わしている。

新聞社支配の放送業界
 最大の問題点は田中角栄総理の時代に、電波(放送)って媒体を当時のマスコミの代表である新聞社に認可したことだろう。北海道でも新たなUHF局(それまではVHF帯の放送局であるNHK総合、教育テレビ、STV,HBCしか無かったのだが新たな電波周波数も放送に割り当てられた)時に、手稲山の王子緑地が所有する山頂の土地を借用してアンテナを建てる事業計画書を当時の郵政省(現在の総務省)に提出して認可を求めた団体は100団体をくだらない。当時の王子緑化の担当者は一日に何十枚もの土地借用書の稟議を書いたと聞いている。  じゃぁ、それが、何故、一本に調整されて現在のUHBやTVHになったかと言えば、申請書の一本化って政治判断で申請書の取り下げを買い取るビジネスが横行したのだ。
 逆に言えば、放送事業なんか考えていないのだが、放送利権の一翼を担いたくて放送局設立免許申請書を作成し、最終的に政治決着の中で利権を買い取ってもらうビジネスモデルが当時は存在したのだ。
 具体的な企業や団体名は書かないが、現在の札幌のケーブルテレビはJ:COMだが、前身を辿ると、このメディア利権のビジネスモデルに参加していた過去がある。
 結局は新聞社の情報流通によらなければ放送事業は成り立たないと解っていた時代(現在は、その反動でCNNなどが存在するが)に新聞社配下では無い放送事業の免許申請なんか絵に描いた餅だったのだが、そこに利権が、金銭が存在した。結局は新聞社の政治力で北海道のUHF放送も統合されるのだが、そこに至る利権で儲けた企業や団体は新聞社に借りを売ったのだから新聞社支配の放送の実態には口を挟まない。
 新聞社支配の放送に異を唱え、改革を叫んだ政治家は少ないのだが、小沢一郎氏が民主党政権時代に新聞社支配の分離を叫んでいる。もっとも、「利権の付け替え」と冷ややかな論調が多かったのだが、当時の総務大臣であった原口一博氏は本気で捉えていたようで、当時twitterで絶賛していたのだだった。

北海道民の目、耳として機能していない
 前置きが長すぎた(笑い)。本論はJR旅客鉄道の存続に関わる北海道における世論形成である。私のHPが世論を形成する機能があるとは思っていないが、北海道新聞社には世論形成の力がある。何故なら、一般市民は情報は報道によってしか得られないのだから。
 ネットはそれを補完すると言われてるが、実際のネット情報は玉石混合で、その玉石混合から「玉」を選別するには新聞やテレビに代表される「一方向垂れ流し情報」が逆な意味でネット情報の真偽を保管する。
「デマンドで欲しい情報を入手」には危険が伴い、自分の関心のある結論にしか辿りつかない。デマンド情報故に自分に「気持ちが良くない情報」は飛ばしてしまうのがネット情報なのだ。そこには「真実は何か」って姿勢より「自分の考えに賛同する意見はあるか」って意味での情報リテラシーが存在する。
 で、北海道新聞だ(笑い)。
 最近のテレビ報道を見ているとネット情報をリソースにしているものが増えている。NHKの朝のニュース(金曜日)の「ネット動画」なんかは明らかに報道機関が個人のネット情報をリソースにして作られた番組(しかも、ニュースの形態を取って)だ。
 ジャーナリズムは果敢に情報のリソースに迫らなければいけないのだが、そのリソースとの信頼関係と利害関係が矛盾する場面が多い。政治家の不正に迫るには当事者である政治家を情報のリソースにするのが確実だが、そこには利益相反が発生して近づき難い。また、信頼関係の修復には多くの手間がかかる。
 商業報道だからリソースの入手コストも製造業で言う「原価」であり、そのコストは低いにこしたことは無い。で、報道の現場はネット検索でリソースを探すことになる。
 今回の北海道新聞の一連のJR北海道問題の報道には政治の視点が抜けている。記載されている政治がらみは、30年前の政治判断の是非だが、必要な情報は政治は鉄路をどう考えているかって未来志向の情報だ。何も考えていないなら「馬鹿みたいに、何も考えていない」と書くべきだろう。それが今後の情報収集活動に不利益を招くことに配慮して書かないのは新聞社の自己保身だ。
 しかも入り口(リソース入手元の新聞社)が機能不全だから多くの出口であるテレビ報道も同じ結果になる。北海道の民放の北海道関連報道は全てリソースが北海道新聞だからテレビのチャンネルを変えても新聞の2面を読むか3面を読むかの違いしかない。
 対極のNHKもジャーナリズムには程遠い「ネット動画」の世界であり、放送法に縛られた単独放送局故にジャーナリズムには程遠い。
 結局、報道の根っこを抑えている政治による政治主導の報道にしか接することができないのは、田中角栄氏の亡霊が今でも報道機関を支配しているってことだろう。
 JR貨物の物流問題から今回のJR北海道問題に切り込んだ報道が行われないのは、まさに亡霊支配の証左だろう。
 で、その報道姿勢が地方を衰退させているのを中央しか見ていない北海道新聞社は気が付いていない。

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2017/02/06
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