野党の攻撃に対する与党の専守防衛の無駄
野党は攻撃されないのは何故だってのは衆議院議員の足立康史氏が委員会で述べているが、まさに、野党が存在する価値を国民に証明する責任が野党にあるだろう。何故なら、与党も野党も国民の税金で運営されている「機関説」を自覚しているのか疑問を感じるからだ。
野党が与党を攻める議論が国会の華のような仕組みを壊したのは過去に社会党委員長を務めた土居たか子議員の「駄目なものは駄目」発言である。国会議員(つまり、国民から選ばれた代議員)が何の内容も無い感情論で国民が引き付けられると勘違いした瞬間だ。
実際には、その戦術は継承され成功を収めた時期もあったが、結局、国民は冷めてしまった。この戦術は今は東京都知事の小池百合子氏に伝承されているようだが、これも時間の問題で、時が経てば終焉に向かうだろう。一時のブームを利用する選挙対策は解るが、国民(選挙民)は結局は正論に終焉する。
それに時間がかかるのも国民が選んだ「代理人選挙制度」の本質なのだが、世論は揺れるってのが正に民主主義のバランス感覚だ。アメリカではトランプ大統領が選ばれたが、これも民主主義のバランス感覚で、必ずしも正解では無くて、民主主義は世論を代弁する政治制度だってことだ。
正解を得るためにはAIでも使おうかって発想があるが、ある意味で正しくてある意味で間違っている。それは、人類は自分の滅亡を自分で選ぶ権利があるってことだ。自分の将来を決める権利は自分にあると考える事を否定してはならない。究極の「自己責任」は自己に求められ、なおかつ、公人でも個人でもなくって人間として社会で生きるためにはに担う最低限の逆な人格責任だろう。
その社会に存在するために自己の自己責任を担う義務を果たせない人間は社会からスポイルされるって自覚が無いのかなぁ。
議員の仕事って解ってない
国会議員は選挙で選ばれた生徒会の学級委員では無いのだが、最近の民進党の動きは学級委員会でしかない。何故なら「立法府」なのだから現状の法律の不備とそれを正す活動が基本的な「政治活動」であるべきだ。
例えば、尖閣諸島に関して野党議員はどうするべきか「戦術」を公開しているか。方針が無いので何の案も無い。現場の海上保安庁に指示出来ない野党に政権(行政府)を任せられるかと考えると、政権(それが、議員内閣制の宿命なのだが)を担うには政策を戦わすことが必要だろう。現実、日本の国会は韓国を笑えないほど底レベルで日本は世界の笑いものだろう。
日本の代議員制度ではいったん選挙で当選すると任期(衆議院は解散まで、参議院は6年)の間は代議員を罷免されることは無い。地方自治には実現のハードルの高さはあるがリコール制度があるのに国政の代議士に対するリコール制度は無い。
特定の政治団体の代表として当選してきたのだから、特定の政治団体の利益確保のための活動が、対抗する勢力によって阻害されてはならないと考えるのだろうが、支持母体が何であり、その支持母体の利益のために活動する考え方がおかしい。国政の立法府を務めるのではあれば「国民ファースト」の活動を行うべきだ。
そもそも選挙の支持母体ってのは「手段」であり目的では無い。そんことが明確では無いから「創価学会」や「幸福の科学」はては「オウム真理教」まで「支持母体」として選挙に参入してくる。
選挙の公約は支持母体の利益であってはならない。日本国民の生命と財産を守るために政策を立案するのが政治家に課せられた義務であり、そのための活動を行わないのであればすべて「国民反逆罪」である。よって、罷免する制度が必要である。
地方の選挙区で当選しても全国の国政の場で品格を疑われるような国会議員は全国の国民の投票で罷免する制度を確立しないと、次の選挙までは次回当選の選挙運動か政局主体のパワーバランスしか仕事しない国会議員を生む。
ネットがこれだけ普及したのだから、ネットで十分だろう「拝聴に値しない馬鹿な国会議員」をネットで投票し、政党が党籍離脱や辞任を勧告しなければその輪禍は政党にもおよぶ制度を確立すべきだ。
「ゲスの極み」は芸能界だけでは無い。国政の中にも巣を広げているのだから。