「間違っている」って発想は陳腐
教育に間違いがあるかを問いたい。
教育には「悪い教育」と「良い教育」はある。しかし「間違った教育は無い」と断言できる。何故なら、日々家族生活の中で子供に接している行為も教育なのだが、これに「間違った」は存在しないからだ。
犯罪なんかで両親を引っ張り出すマスコミに対して両親が「育て方を間違った」なんか言ってる(本当に言っているかは疑問だが)と伝わってくる。「間違った教育」、「間違った子育て」は無い。唯一あるとすれば戸塚ヨットスクールで問題になった教育を受ける側が死亡してしまう教育だろう。それは、教育の土俵で語らずに人権の場で語るべきことだと、ここでは割り切っておく。
「教育とは何か」って基本的命題にここでは触れないことにする。そもそもが、森友学園問題で国会が国費を浪費して予算委員会を筆頭とした「ゲスの極み」を指摘したいからだ。
「教育かくあるべし」については、このHPでも多数書いてあるので、HP内検索を利用して探してもらいたい。
教育は人類の行為の伝承であると私は定義している。これは文系だとか理系だとかに絞り込まれない。かつてのドイツの宰相であったビスマルクは「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言ったが、教育で与えなければならないものは過去の人類の知識である。往々にして最新技術や理論を扱う教授が多いが、学生を入り口に導かないでジェットコースターに乗せるのは「悪い教育」である。
そして、人類の歴史は試行錯誤で死屍累々だった。その認識が無くて「理想国家かくあるべし」と邁進したのが毛沢東だが、結局、歩いた後は実質的に死屍累々であった。
人類は試行錯誤を積み重ねることを繰り返してきた。原発問題も極論すれば試行錯誤である。
「原発ゼロ」は悪い教育である。今ある原発をいかに終息させるかを考えるの「良い教育」である。
多様な視点を人類の経験から導き出すのが「良い教育」だ。
極端な教育に耐える教育
極右とか極左とかの用語を使うのにマスコミは積極的だが、実は20世紀の遺物表現なのをマスコミ自身が気が付いていない。極論すれば右左の論議はフランス革命後の議会の議席の配置であり、いまさら、それを引き継いでイデオロギーの世界に誘導してもらっては困る。
「極論」とは何か。それは、日々自分が立ち位置としている社会の趨勢の理解と違う意見ってことだ。
だから、その意見を「間違っている」と排除してはいけない。もっと耳をそばだてるべきだ。単なる「基地外の暴言」としてネグレクトしては自らの成長も放棄したことになる。
表題に書いて「戸塚ヨットスクール」関連を書いていないが、私は多様な教育が容認される(法令違反は駄目だけど)社会こそが日本の将来に必要な教育であって、私学のバカが留学生教育で補助金をもらているのは「国賊行為」だと思っている。
そもそも、今の教育組織(教育制度では無い)は多くの留学生を「飯のタネ」で抱えている。その教育は「授業料払って(国費補助)くれたらいいから」になっている。
どの面下げて「軍事研究は拒否する」なんだバカタレが。
教育は「筋を通す」必要がある。何故なら、次世代の国民を育成する機関だから。にも拘わらず留学生教育で生計をたてているのは戸塚ヨットスクールの比では無い国民の税金で食う国賊行為だろう。違うのは「教授会」が責任者で戸塚個人で無い点だ。つまり、同じことを行っているのに「我々は国際貢献ですねぃ」と口がひん曲がっているのだ。
私学は銭勘定で厳しい状態だろう。でも、大切な事は「教育は何故必要なのか」ってポリシーだ。残念ながら今の教育に「間違った教育」って政党が居る限り国会で教育はかくあるべきの提言は期待できない。本来、すべき「有るべき論」も自民党は出来てない。
多様な教育を否定しては北朝鮮と同じになってしまう愚を野党は認識していない。お花畑は極寒の冬を経て花咲くことも知らない。