主権在民は絵にかいた餅になった
日本が何時の時代に安定した政治制度を設けたかは所説あると思うが、基本は貨幣制度の確立にあるだろう。鎌倉幕府は生産性の向上した国土をマネージメントするのに貨幣制度へ移行したが、自分たちが貿易によって貨幣を独占したことにより自ら貨幣制度の崩壊とともに表舞台から陥落してしまった。
これを学業教育では「鎌倉幕府の衰退によって..」なんて表現するが、その「衰退」の根源は学業教育では教わらない。何故なら入試に出ないからだ。
歴史には原因があって結果がある。その過程を学ぶのが歴史を学ぶ意義なのだが、年表をおさらいするだけの今の学業教育では歴史から学ぶことすら教えられない。だから「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」(c)ジェファーソンってのすら無くて、痛い目にあった経験すら忘れて「希望の党」に投票したりする。あ、話が逸れた。
国家の成り立ちは古来からの課題であった。国家の吸引力(引力)を「民族」に求めたり「宗教」に求めたり「王様」に求めたり、国連に加盟している200強の国家にはそれぞれの手法がある。国連加盟の国家であっても大統領府の半径500mだけが統治されているなんて「失敗国家」も結構ある。
人類って種族は集団行動を基本とする動物なので、試行錯誤を重ねながら「政治制度」って集団の規範を模索してきた。ここ500年はデモクラシー、日本語で言う民主主義が一つの結論だと定義されている。
そこには「選挙」って「代議員方式」が選択されている。古代のローマ人が考えた民主主義は「直接民主主義」であったが、現在は「間接民主主義」に落ち着いている。日本の場合、戦後GHQによってアメリカ的な直接民主主義と間接民主主義の混在案が地方自治制度に存在するが、基本的にイギリスを手本にした「代議員制度」で立法府は運営される。国の統治制度には三権分離で代表される「司法」と「行政」が存在するのだが、「代議員方式」の立法府では三権分離制度で言う「立法」は行政に依存する行政主導の立法府になってしまう欠陥を有している。
マスコミは統治制度に踏み込まない
民主主義制度が正しく運営されるには、国民が立法権を託した「代議員」がどのように行動しているかの情報が必須だ。「託したら任せる」って考え方は民主主義にはそぐわないものだ。代議員を選んだ選挙人(投票者)には責任がある。選んだ、もしくは無駄に終わった(投票先が落選)投票であっても代議員が地域を代表して国会(立法府)で発言権を得ているのだ。その行動は一票を投じた候補者かどうかを離れて、自らの住む地域の意見の代弁者なのだから、その行動を知るべきだろう。それは「政策報告会」なんて江戸時代の辻説法でしか行われていない(しかも、一部は有料の政治パーティ)。
ここに「第四の権力」と言われるマスコミの機能が求められる。
どうも朝日新聞を筆頭に今のマスコミは「世論を形成する使命」なんて勘違いをしている。報道姿勢に文句を言うと「報道の自由」を盾に防御する。報道の自由とは「報道しない自由」になるのはモリカケ問題でネット住民が気付いたことだ。放送は放送法で縛られている(もっとも、一番組ではなく全体を通して縛るって解釈もあるが)。しかし、その株主は新聞社だ。新聞社には無制限の「報道の自由」がある。ま、新聞を規制する法律は無く(株の移譲制限法律はあるが)、全部、共産党の「しんぶん赤旗」と同じプラットホームに立っている。
だから、それで良いかと言えば、もはやネット全盛社会に突入しつつある時代(実はトフラーが「第三の波」で描いていた社会)において、スタンダード・メディアは既に使命を終えたと言ってよいだろう。(スタンダード・メディアは20年ほど前にニュー・メディアに対する語彙として表記された)
その苦し紛れの断末魔の毒吐きが今散見されるのだろう。
実は社会の大きな流れの中で立法府すらその使命を問われている。今までの官僚依存の政治は糾弾されつつある。今までマスコミが有る意味において立法府の本質に踏み込んだ報道をしなかったのは、既得権益を立法によって侵略されないバータ取引だ。その最たるものがテレビに代表される放送である。
本来、有限の電波資源(放送周波数帯が有限)は「割り当て」では無くて「電波オークション」にて配布される性質のものだ。国民に電波資源を管理する権利がある。官庁の許認可権なんてチッチェエものでは無い。
統治制度の制度疲労はこの面にもある。また、放送法4条の「公明正大」も既にアメリカではフェアネス法は廃止され、ここのメディアは自分の立ち位置を明確にして報道する「自由と責任」を求められている。(これもトフラーの「第三の波」にある)
日本の統治制度を改革することが政治に求められてる。たぶん、旧来の政党には出来ない事柄で、かと言って、雨後の筍みたいな政党にも出来ないだろう。
しかし、社会の変革に着いて行けない制度は、やがて破綻する。
まずはマスコミ崩壊から我々の目に見えてくるのだろう。