教育無償化の制度設計は難問山積
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呼称が問題
まず、用語用法の問題から始めてみたい。「教育無償化」ってのは「教育税金化」ってことで、無償の恩恵と言うか利益を得られる国民層は限られる一部ってことを認識する必要がある。
国家の方針として国民が社会インフラ化を甘受するには国家的な意味がある。国家の永続的発展を支えるのは構成員である高い教養を持った国民であることに異論は無い。ただ、それを受けられる国民は現在の日本の教育制度では学校に通う学業教育を受講できる世代とそれを扶養する世代に限られている。
ま、それは、それでしょうがないのかもしれないが、例えば大阪市のように高校教育の自己負担(あえて、無償化とは言わない)ゼロを実現した制度だが、会計的には中学校卒業で(ま、実数は少ないと思うが)就職した市民が納める税なんかが働いていない高校生に使われていることになる。
そもそも、律令制度における税金の用途は民間(この概念は大化の改新当時は無かったのは承知しているが)が出来ない公共財の整備と「富の再配分」にある。この基本を間違うと律令国家は成り立たなくなる。
例として適切かどうか迷うが、共産主義国家が律令国家なりえない部分に権力と金の同期、つまり汚職の存在がある。もちろん、民主主義制度で運営している国々でも汚職、つまり、行政権限を金に換える事例は成る。しかし、それは「明らかな不正」として認識される。共産主義国家では律令制度が共産主義にも関わらず当然の結果として共産主義ヒエラルヒとして「権力=金」に行く着く。
一方、高等教育を受ける層に、高等教育を受けられない層から徴収した税金を投入するのは汚職以前の律令国家の制度の基本に反する制度だ。
そこで、現在の日本の教育制度をパラメータにして「教育の無償化」つまり「教育の税金負担」が実現する場合の制度設計上の問題点の分析を行ってみたいと思う。
この区分けを行わずに「全ての教育は無償=全ての教育は税金で賄う」ってのは矛盾に満ちたスローガンで、このままでは具体的な「制度設計」が難しく、政治屋の人気取りのスローガンでしか無くなる。それが、制度設計の無理押しによって官僚の詭弁制度と化して歪められ「教育の税金負担」を押し付けれられる国民はたまったものでは無い。
そんな、制度設計の議論をマスコミは考察していない。
単細胞に「教育の無償化は良い事だ」としか報道しない。
本来、社会のインフラとして教育が存在するのは賛成だが、その制度設計へ配慮すべき事柄を予め知っておくことが大切だろう。
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制度設計のマトリックス
ここでは、教育の無償化(教育の税金化)を対象となる世代によって以下のように分けて考える。諸外国の教育制度と日本の教育制度の違いにより、このマトリックスは単純に国際比較は出来ないのだが、多少は諸外国との比較が可能に区分けしてみる。
日本には憲法で決められた「義務教育制度」があるので、この部分は「無償化=税金化」されている。
ま、おバカな親が子供に「義務教育なんだがら、子供は学校に行く義務がある」って発言が散見されるが、まこのような無教養には言及しない。親が子供を使役させずに学校で教育受けさせる義務を負うっての「義務教育」だ。
子供には教育を受ける義務は無い。ま、ここがボタンの掛け違いなんだが、これは後述か別項にする。とりあえず、社会インフラとして「税金が投入されている」義務教育ありきから考えることにする。
1)就業前教育
現行の幼稚園とか託児所とかがこのマトリックスに入るのだが、そもそも、託児所は「厚労省」、幼稚園は「文科省」って、行政の縦割り利権制度で国民は翻弄されている。
教育は生涯教育も含めて一気通貫であるべきなのだが、現在は年齢ごとに制度がバトンタッチされる制度設計がなされている。だから、後述するが、高校で九九を教えなければならなくなる。
もっと情けない制度の欠陥は託児所で働くには「保育士」の資格(国家資格)、幼稚園で働くには「幼稚園教諭」の資格が必要で、その資格認定は前者が厚労省、後者が文科省になっている。でも、国民(ま、未来の有権者である子供)は所轄官庁のたらい回し」なんかは関係ない。
子供が集団生活(ここは、異論があるが、とりあえず、社会の構成員意識を学ばせる制度)は、社会的に必要であり、その意味で、所轄官庁が縄張り争いをしている、現在の制度を見直すべきだろう。それが、「納税者の意思だ!」
就業前教育は当事者である子供に向けた制度だが保護者に向けた制度の余地も大きい。「保育」代行なのか「教育」なのか、線引きはかなり難しいが、それを役所の縦割り制度で制度設計する意味は何もない。子供本位で考えるなら(一部、保護者の利益も代弁することになるが)、3歳児以降の教育として制度設計を行うべきだろう。
現在の「乳幼児」って用語は役所の縄張り争いで、そもそも人間を年齢で分類するって考え方が尊大なのは「後期高齢者制度」でも同じだ。3歳児までは親の保護の元に介護保険制度と同等の制度設計を行うべきだろう。そもそも、育児と介護に違いがあるのだろうか。単に言葉のアヤではないのか。
分けて考える発想そのものが律令制度の「厚生」に矛盾するのだ。何故、それがまかり通るかと言えば、高齢な親が居る国民と乳幼児を抱える国民の数の差だろう。でも、そんなことが国政の制度設計に優先順位をもたらすって考え方は間違っている。政策は等しく平等であるべきで、介護保険があれば乳幼児保険も(その仕組みは制度設計の反中だが)有って当然なのだが、政治家の無能故に(ま、乳幼児は投票権が無い)本質を見極められずに歪められてるのが現状だ。
中学校以降の高等教育こそ問題
先に中学校卒業で就労した世代が納める税金が高校の授業料無償化(税金化)で使われていると書いた。今度は同一世代の律令制度の矛盾の話になる。
そもそも、律令制度とは何かの議論が必要なのだが、日本国憲法ですら「納税の義務」と、議論の余地を排除している。ま、国家を成り立たせるためには必要条件なのだが、その「精神」を考える事は必要だろう。
ネットで散見される「アホな高校生に税金を使う必要は無い」って意見は皮相的だが現実だろう。年齢別の人口構成で私立高校では入学者が減少して多くの場合に定員割れを招いている。やっとこ入学者を確保しても、九九すら出来ない生徒を前に規定されたカリキュラムが実施できない。
ま、九九は小学校、因数分解は中学校のカリキュラムで高校ではそれを応用して統計分析を教えたいのがだ「加重平均」を教えるだけで多くの単元を使わなくてはならなくなる(ま、これは大学でも同じなんだが(経験則))。
都市伝説では一部の私立高校では夏場の気温が高い時期に教室の窓を閉め切ってににんがし」なんて唱和しているらしい。この「教育」に税金を使って良いものなのか。
義務教育が生んだトコロテン方式で高校生になった層は多様だ。「中高一貫教育」が叫ばれるのは現状が中学校での就学で取得すべき学習能力を会得してない層が高校に進学してしまう矛盾を、ある意味で「覆い隠している」だけだ(それが顕在化するのは10年ほど先になるだろうが)。
この部分に税金(憲法に書かれてるから全ての国民の負担)を投入することが国家の利益、つまり国益に叶うのだろうか。そこは議論の余地があると思う。
ただ、現在の高校の教育(何故か国際分析では「高等教育」に入るのだが)は大学進学のための受験教育と義務教育の尻ぬぐいに二分化している現状を正しく認識しないと(ま、どちらも間違っているのだが)、税金のコストパフォマンスは最悪になる。
大学教育はどうすべきか
13年も仕事の片手間で私立大学で非常勤講師を務めた経験から得たものは中から大学教育を見る事が出来たので有意義だったと思っている。それは「経験に学ぶ」って意味では無くて大学が情報面で開かれていない部分が多くて、それに内部から触れることが出来たからだ。
最近のテレビでコメンテータに「何とか大学講師」とかの肩書がテロップで出てくるが、ま、正直言って大学側のCMだ。名称は「客員教授」とかもあるけど、結局は半期に数回講義(講演だろうなぁ)すると「客員教授」って扱いだ。もちろん、講演料であるギャラが支払われる、
そもそもコメンテータってのは真実の追究者では無くて主義主張のアジテータな訳で、それを大学の主張と勘違いされて学長選挙に負けた村田晃嗣元同志社大学学長の結果を見ても明らかだろう。もっと言えば権威付けに大学名を使えばマスコミは安心って感じかな。
現在の日本の大学教育は国政的に見ても最低の下を行っている。多くの問題点は学生の質なんだが、その質の低下を受け入れて授業料収入って経営を優先している大学が多い。私立大学だけかと言えば、国立大学も独立行政法人に移管されたので死活問題として「授業料収入」(ま、これに「歳入の部」を頼るのが情けないのだが)が経営で大事になる。
北海道の札幌市には北海道大学って国立(現在は独立行政法人)がある。地下鉄を北12丁目あたりで降りて工学部の門をくぐると大学生協の食堂があって、開かれたキャンパスなんで、ここでラーメンなんか食べる事ができる。
で、回りを見回すと時間帯によるが半分が外国人、特に韓国と中国が多い。皆、大学生では無くて大学院研究生なのだ。つまり、国家の税金(実は中国の税金では無くて迂回した日本の税金)で学んでいる外国からの留学生なのだ。
4大では隠せないので大学院で海外留学生を受け入れて「日本の税金」を得ているのが実態だ。
そんな独立行政法人制度の中で既存の大学が四苦八苦してるのに教育無償化で税金を投入する議論以前の議論を飛ばしていないか!。
大学教授ってのは民間企業に勤めていた人間には本当にバカなんだなぁと思うのは教える事は自らの価値って意識が無いこと。学生と楽しくやれれば勤めを果たしているって感覚、違うんだなぁ、学生に何を与えられるかが教育者の価値なのだが、その使命感が無いので自滅しているのが現在の大学教育だ。もちろん、学生の質の問題もあるが、基本は「大学を出てもなんもならん」大学が沢山あるってことだ。で、専門学校は「教育に税金を」って対象になるのか?
もはや、高校以降の教育は多様で税金を投入する意味は無いだろう。それを税金投入の選別をすると役人の許認可原理主義国家にになってしまう(既に、私学助成ってのは憲法違反なのだが、まかり通っている。国会では問題にされないのは国会議員の国民への「不作為」なのだが)
ま、制度設計で言えば、大学は学費を上げて(ちなみに私は国立大学の学費が月額1000円だった最後の世代だ)それで存在価値を高められないなら廃業すれば良い。
一部のプータロー大学生に勤労青年から入手した所得税を投入するのは「人種差別」だ!