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店舗構えて営業マン配置は崩壊
いまさらながらIT関連の報道には無知が蔓延してる。業界の希望も反映されているのだろうが、数年前に「3Dテレビ」って話題で盛り上げた業界は何処に行ったのか。IT(企画書を書くときは、対総務省ではICT、対通産省ではITの用法が求められるのだが(笑い))関連は皮相的に流行を作るばかりで、本質的な「情報化社会」にはほど遠い報道が行われている。
日本のITと言うかネット社会がスタートしたのはネット側から見ると1985年の電信電話公社の民営化でNTTのスタートなのだが、これはハードウェアの開放だった。電話線(当時は交換方式)に繋ぐ機器は電電公社が作成(販売)する機器に限られ、一般に向けて「勝手に機械を作って接続」してはいけないことになっていた。唯一、「音響カップラー」って通信速度が300bpsのアナログ/デジタル変換を使ってデジタル情報を音響に替えて行う通信(つまり、電話線を流れるのは音声ってアナログ)装置が初めて民間の企業から発売された。ただ、「電電公社公認のシール」が無い機器は「公的には」接続が違法って方式でスタートしたのが日本の通信自由化だった。 1987年だったが、北海道の知事が横路孝弘氏だった時代に「北海道新長期計画」の策定が始まっていわゆる「新長計」が始まった。その企画に道庁の農政部から募集された提案コンペで私はかねてからNECのC&Cに共鳴していたので「パソコン通信による都市と農村の交流事業」を提案した。運よく採用されてパソコン通信をNECのPC-VANの中にCUGとして設置し、その後3年間は調査事業として、その後2年間はメンバーによる自主的ネットワークとして運営を担っていた。 当時は「市民のネットワーク」としてのパソコン通信の世界的な黎明期だったので、それなりの意見交換を通して価値観の違いの認識と相互理解の仕組みとしてネットワークは大切な機能って調査結果を報告出来た。 それまではコンピュータ業界に汎用機を使った計算センターから足を踏み入れたので、新人はCOBOLで書かれた委託業務の「なんとか集計表」ってプログラムを作るのが仕事の大半だった。1982年ころに、たまたま仕事の褒章なのか東京に「データーベース利用のオンライン機能」って講義を公費(会社持ち)出張で受講したのだが、NECの「金集め」みたいな内容の無い講演だったのだが唯一「データは使われてナンボ」って価値観は新鮮だった。それはオンラインでしか提供できない。 そこで振り返って(30年も前の時代だけど)見ると、情報を運ぶ職業って既に瀬戸際だったのではないだろうか。 今一度「情報」って言葉を考えてみるに、都市伝説化しているが「Information」って言葉を「情報」と日本語化したのは森鴎外と言われている。 通常Informationは駅に多い「案内」の訳だが、これをあえて「情報」として、つまり森鴎外は「情けに報いる」ものがInformationなのだと考えたのだろう。 以後、様々な解釈を含みながら「情報」は歩み始める。 |