マスメディアとメディアを混同してはいけない

現在のマスメディアは絶滅に向かう恐竜
 本来メディアは「媒体」であり、何かを運ぶ機能を指す。その意味では糸電話の糸であり、狼煙(のろし)の煙である。そのメディアが何を運ぶかが重要になる。
 今年はNHKがラジオ放送を始めてから80周年だそうだが。80年前にマスメディア(マスコミ)が登場したことになる。人類の歴史の長さからみたらなんと短い期間だろうか。
 それ以前は瓦版から発展した新聞(商業新聞)がマスメディアであった。NHKの独占状態であったラジオは太平洋戦争を経て民間ラジオ放送に繋がっていく。最初に民間ラジオに手を出したのは、当時のマスメディアであった新聞社。そしてテレビ放送が民間に開放されても新聞社を核とするグループがテレビ放送にも手を伸ばしてきた。
 ある意味、新聞社ってメディア産業は機を見るに敏と言うか、まさにマスメディアのマスが可能な部分に触手を伸ばしてきた。しかし、ここに至ってインタネ(インターネット)の普及に対しては何故か動きが鈍い。ラジオ放送から80年。インタネの商用利用から8年では、まだ実態が見えないと言い訳することも可能だが。
 新聞→ラジオ→テレビって流れはメディアの技術革新ではあるが、メディアが運ぶもの(メディア会社の経営)には変化が無かった。いわゆる情報を伝達する媒体が紙→電波(音声)→電波(動画)と変化しただけだ。どの場面でも対象は一般大衆であり、媒体はマスメディアを可能とする単方向(つまり、放送的なもの)だった。
 マクルーハンの「メディア論」でラジオ放送を「民族の太鼓」と称してるが、まさに、音声(言葉) しか伝えないラジオは共通の言語をもつ者同士にしか伝わらない「民族の太鼓」であった。深夜、中波ラジオのチューンニングを動かすとロシア語、韓国語、中国語が飛び交っているが、その言語が解らない我々にとって「他民族の太鼓」、それも「日本を侵略せよ」って鳴っている言われても否定のしようが無い。まして、陸続きのアフリカ各国ではラジオはどのような機能を持つかと言うと、まさにマクルーハンの述べているように民族の団結と他民族への攻撃と感じられるのではないか。
 このマスメディアの基本である「放送的な」機能が、いまメディアの中で主役の座があやうくなっている。

インタネはどんな(マス)メディアかを考えるべき
 ある意味、ラジオは世界戦争を起こしたメディアだったのではと考える。一見相互理解が進むように思えるが、国境を越えて飛び交うラジオ放送は相互不信を助長する機能も持っていたのではないか。それに比べてテレビは動画を伴ってより多くの情報を伝え、言語の壁は残るにしても映像による情報伝達は相互理解を深めるのに役立った。言葉では伝わらない喜怒哀楽が動画なら伝わる。そこに人類としての共通認識が醸し出されるのだ。
 ある意味、大きな戦争が無かった60年間はテレビが支えたのではないかと僕は思っている。
 で、21世紀に入って技術革新によって、またひとつメディアが増えた。インタネ(インターネット)である。最初は学術利用に限られ一般の企業がメールの送受信に利用することもはばかられたインタネだが、1996年頃から当時の言葉で言う「商用利用」が日本でも解禁された。
 先に挙げたメディアと決定的に違うのは国の(行政機関の)許認可によらないメディアである特性を持っている。参画の門戸は開かれている。過去の日本において許認可を必要としないマスメディアは紙媒体(出版の自由)に限られ、規模の大小を別にすればビジネスモデル化しているのは新聞と週刊誌に限られている。読売新聞の公称800万部がこのメディアのマスメディアとしての最大数である。これに比べて電波媒体は理論計算では視聴率10%の低迷番組でも1000万人の目にとまっているマスメディアで、その規模は1桁違う。
 比べて新しいメディアであるインタネはどうかと言うと、視聴率のような計り方は出来ないがyahooがワールドカップ期間中(2002年の古いデータだが)一日に3億5000万ページビューを達成してる。日本の人口を超えているのだから、同一人の複数ページ閲覧や複数ビジットが加算されてるとしても1億に達する「マスメディア」機能を発揮しているのだ。
 既に既存のマスメディアであるテレビを越えていると言って良いだろう。そこに無いのは行政の許認可と確固たるビジネスモデルだけで(ま、ビジネスモデルが無いと企業化が難しいのだが)市場はすでに成熟している。そんな分野がインタネが抱えるマーケットの規模だ。これは十分、マスメディアと呼んで良いだろう。
 では、既存のマスメディアとインタネは同等かインタネの方が規模が大きいのだろうか。実は、両者には受動的メディアと能動的メディアの大きな差がある。一方向で流される放送は受動的なメディアであり、極端な話、受ける側の右から入って左に抜けていく。ながら族に代表されるように、バックグラウンドで流していても視聴者にカウントされる。方やインタネは自ら操作して情報を取り出すデマンドメディアで、能動的な情報収集を要求する(必要とする)メディアである。
 その違いは情報を必要とする場面ではインタネが求められ、スポーツのように同時多数感動なんて部分は放送が向いているのだろう。日本人はほとんど文字が読めるので、新聞も含めたメディアの特性にあまり気を払わないが、メディアは用法によりかなり独自の特性を持っている。インタネはデマンドメディアと呼ぶのが利用手法から妥当だろう。そして規模の面からはマスメディアと呼んでさしつかえないと思う。

メディア支配は権力の横暴を許す
 ライブドアによるニッポン放送の企業買収劇は「メディア戦争」などと言われているが、実はマイナー・メディアとメジャー(マス)・メディアの戦いなのだ。そしてメディアに対する認識が大きく異なるメディア文化論の戦争でもある。
特にライブドア側からはマイナー故に、マスメディアが「おいしく」見えているようだが、その本質を良く理解しないと恐竜と一緒に底なし沼に足を踏み入れることになる。一番大きな違いはマイナーと思われてるインタネにはコンテンツがあり、マスメディアである放送には電波で伝える機能しか無い点だろう。あれだけ番組を流している放送局だが、じつは独自(自由になる)コンテンツは所有していないのが実態だ。
 ラジオ放送の視聴者のリクエストで構成される音楽番組も、一過性のレコードの電波による伝達だけで、1曲放送してナンボの金をJASRACに払って電波にのせているだけ。だから、コンテンツはその時瞬間のみ。サーバーに蓄積して再送信なんてことは出来ない。
 つまり、インタネで言えば通信回線だけが放送の持ち物で、流される番組は風のように吹いては消え、蓄積再利用されるインタネで言うコンテンツは放送局には皆無なのだ。無理して使おうとすれば既存の権利関係の調整(支出)が必要でコンテンツ利用原価は高くなる。とても無料で流すことは出来ない。
 マスメディアの特に放送については、これから二次利用も可能なコンテンツを蓄積し始めた所なのだ。
 で、まさに流すコンテンツが大切で、このコンテンツがメディアの支配者が意図的に流すことが無いように放送法等で的確な運用を義務づけている。
 で、最初に戻るが、インタネも規模でもマスメディアを越えるメディアだが、的確な運用は誰も担保しない。お上が何でも管理するのが良いとは思わないが、誰も質を担保しないメディアとして、しかも、独自のコンテンツを作成して流通させることが可能だ。
 こんなメディアが放送に代表されるマスメディアと相乗効果を発揮できる土俵があるだろうか。放送のように広く薄く満遍なく配る機能と、インタネのように広く薄い関心を集約する噂のメディア。2chに代表されるメディアの特性をしっかり見極めなくては、マスメディアと共に絶滅の道を歩んでしまう。
 恐竜が滅んだのは彗星の衝突って説も真実みがあるが、結果として、恐竜に変わる生物が進化してきたことにある。メディアの世界も同じで独占、既得権で変わるものが現れないうちは安泰だったが、今やとって替わる機能が登場し、急速に数を増やしている。やがて法による支配が訪れるのか、マスメディアに取って替わるのか、はたまた、第三のメディアとして定着するのか(僕はこの線が一番可能性有りと思う)少なくともマスメディアが何時までもマスメディアで有り続けることは無い。

button ニッポン放送を巡るフジとライブドアの騒動
button 放送とインタネ、恐竜に挑む哺乳類

Back
2005.03.23 Mint