戦力を外交カードにできない日本の外交

兵器は使うために存在する
 防衛力強化のために兵器を購入するってのは一見正当に聞こえるが、買った兵器を使う覚悟が無ければただのオモチャになる。
 自衛隊と憲法九条との整合性の議論はマスコミの好餌だが、実は兵力(自衛隊)ってのは外交の1カードだって認知が欠如している。国民の生命財産を守ることが政治の使命ならば、それを達成するのは「外交」であり、兵力はその1カードなのだと認識する知見が国会議員を筆頭にマスコミにも存在しない国が日本で、それ故に、最後は外交力の稚拙さで国民の生命財産が危機に瀕していることを考慮すべきだろう。
 旧日本軍の兵器の中で一番効果が無かったのが腰に下げた日本刀だった。効果って言葉は生臭いが「敵兵を殺傷する効果」って意味だ。戦国時代ならいざしらず、先の大東亜戦争の時代の科学技術は日本刀で戦う時代は過ぎ去っているって戦争観が必要な時代であった。
 真珠湾攻撃で空母によるタスクフォースがいかに戦術的に有意義であるかを日本は世界に先駆けて証明してしまった。それ故に、アメリカは「海戦はタスクフォースによる航空戦」と把握して戦力の拡大方向を決定した。一方、日本軍は「海戦はアウトレンジ戦法と夜戦」と考えて、レイテ湾で惨敗に繋がる。
 自衛隊の幹部クラスの人と「国防教育の方法」って話をしたことがあるのだが、今の(当時のか、20年ほど前)戦法教育は「桶狭間の戦い」を手本にしているとか。
 ま、「孫子の兵法」を学ぶには最適な事例だが、使っている兵器が違い過ぎるだろう。
 で、北朝鮮の脅威に対応するために高性能な兵器を導入するって言ってる一方で北海道の松前小島に上陸した北朝鮮の漁船乗組員が行った行為(最初は緊急避難、そして番屋荒らし、発電機の窃盗、太陽電池パネルの破壊、漁師小屋の破壊)に対する日本の外交には首を傾げざるを得ない。
 10人の乗組員の中で船長を筆頭に3人が「窃盗容疑」で逮捕、他は入国管理局預かりとなった。しかし、しかし600kgもある発電機を3人だけで運べるはずもない。また、漁師小屋にあった酒類(写真から、セコマのビックマンのようだが)で酒盛りをやったのは全員で3人だけでは無いだろう。
 自衛隊がいかに高性能の兵器を購入して配備しても、シビリアンコントロールが基本の日本では「撃て」と命令するのは統帥権を持つ総理大臣で、そのアシスタントは防衛省では無くて外務省だ。
 外交力が無いと兵器は使えないって現状を考えると、松前沖小島での北朝鮮の漁船員(と、断定されている)の行為が10名中3名が窃盗容疑で逮捕、他の7名は入管送致って決定は北海道警察が外務省に「お伺い」した結果だろうが、つまり「外務省」は責任を負いたくないので「落としどころ」を探った結果の裁定だ。
 暗殺された金正男が入管で逮捕された時も「強制送還」で終わりだ。拉致問題と引き換えの外交カードをみすみす放棄したのが日本の外交だ。しかも、当時の外務省は田中真紀子外務大臣が「さっさと追い返しなさい」と言ったと言い訳していた。
 これほど外交がヘタレなのに高性能の兵器を自衛隊が配備することに何の意味があるのか。(ゼロでは無いが1でも無い)。

演習して威嚇するのが兵器を持つ意味
 「やるなら、やんど!」って意思表示は難しい。相手が「そんなら、やってやろうじゃないかぁ」って逆切れするトリガーになる場合もあるからだ。しかし外交は交渉の場である。相手に「やるなら、やんど!」と言わせない交渉術が外交だ。その意味で日本の外務省は何も出来てない。
 相手に「やるなら、やんど!」と言わしめている時点で外交の敗北だ。「やってやろうじゃないかぁ」と言えるように自衛隊と連携して外交を展開する能力は今の外務省に無い。
 諸外国を接待して友好関係を築くのが外務省の職務と大東亜戦争の敗戦から70年間に渡って外務省が担う責任を「接待」の置いていたのだから今更簡単に変われないのだろうが、国防を担うのは自衛隊では無くて外務省だって気概も無いのなら「鹿鳴館時代の外務省」は即刻官僚を総入れ替えして国難に備えるべきだろう。
 何時でも使えるって兵器を演習と称してデモンストレーションするのが兵器装備の一丁目一番地だ。しかし、高価で高性能なのだが経費がかかるので演習はできないって兵器を具備して何の役に立つのだろうか。使う気が無いのに高性能な兵器を配備して何の外交的効果があるのか、そのあたりの検討はまったく行われていない。
 兵器を抑止力にするためには「今日はこのくらいにしたらぁ」って池野メダカのようなギリギリの威嚇行動(ま、ちょっと違うか?)が必要だろう。
 「一回も使ったことないけど、すごいんやでぇ」ってのは国内向けに稚拙なマスコミには通用しても、仮想敵国には何の意味も持たない。
 北朝鮮の現在のミサイル発射(試射)こそが究極の威嚇なのだが、それに対抗するのに「すんごい兵器持ったでぇ」では笑い話だ。
 竹槍でB29を堕とすって考え方の滑稽さと、今の「高性能兵器の装備」は何ら違いが無いのだが、そのあたりの理解が浸透していない。
 「兵器は使ってなんぼ」、使う気が無いなら無駄使い。

使わない兵器は展示品
 高額で高性能と思われる兵器を配備することが国防の強化では無い。専守防衛を旗印にするなら松前小島に上陸して好き勝手した漁船(か、工作船か微妙だが)に対して厳罰をもって対処する姿勢が必要だろう。国境を犯され、国民の財産(避難小屋の発電機とか保安庁の灯台の太陽光パネルとか)が破損されている状況への対応が腰砕けでは高性能兵器の配備が外交交渉に意味を持つとは思えない。
 外交の運用が腰砕けな松前小島略奪事件を目にして仮想敵国(って、北朝鮮だが)が「結局、日本は何も出来ない国」と判断するのは合理性がある。最後に「撃て!」と言えないなら何を配備しても無意味だ。その下地作りが個々の外交なのだから、松前小島事件への対応は稚拙過ぎて防衛力を地に堕とした。とても「やるなら、やんどぉ!」とは思われない外交だ。「今日はこのくらいにしたるわぁ外交」とでも呼べば良いのかもしれない。
 兵器は「装備してナンボ」ではなくて「使ってナンボ」のものだ。平和ボケと言ったら良いのか兵器の調達には「性能比較」以前に、使うかって視点が必要だろう。つまり、専守防衛と言いながら戦ったことのない自衛隊がいくら高性能な兵器を配備しても「使えるのか」って問題が解決されていない。
 自衛隊の兵器使用を指示するのは統帥権を持つ総理大臣の職務だが、専守防衛を基本に国防を支えるのは自衛隊では無くて外交である。その手腕が行き詰った時に武力行使が行われる。その手順を理解しているのか、今の外務省は。憲法九条を隠れ蓑に職務をはき違えてきたのが外務省だろう。そして、今、日本は危機の真っただ中に落とし込まれた。
 今までの自衛隊は防衛省の予算獲得で装備を拡充してきた。ある意味で「聖域」扱いであったが、国防の視点に立てば総合的に外務省の活動を補佐するのが自衛隊の装備拡充であるべきだ。外務省が何もしないから自衛隊が防衛省が勝手にアメリカから兵器を買ったり、自前で巡航ミサイルを研究したりはシビリアンコントロールの原則を逸脱している。
 にも拘わらず、外務省が国民の生命と財産を守る外交活動をしていないのが現実だ。歴代の外務大臣が防衛省と外交調整を行ったってのは2プラス2くらいだが、当事者意識は皆無だ。
 ま、大人になった河野太郎外務大臣に期待するしか無い。

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2017/12/22
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