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古来の日本には「道」があった
日本文化には剣道、柔道に限らず茶道、華道なんてのもある。日本には「道を究める」探求心を称賛する文化がある。また、称賛されかつ尊敬もされる。
「馬鹿」も蔑称のように言われるが、使い方では称賛にもなる。大山倍達氏を描いた漫画の「空手バカ一代」は立派に称賛の言葉として「バカ」を使っている。ただ、ここは微妙で「空手バカ」だと称賛だが「パカ空手」だと侮蔑になる(笑い)。 同じように順序を逆にすると真逆になるのが「バカ」の用法だ。「サラリーマン馬鹿」はなんとなく「24時間、戦えますか」のモーレツ社員を連想するが「馬鹿サラリーマン」では退場願うしかなくなる。 その「道」の文化に明治維新の頃から外国の「スポーツ」が入ってきた。有名な競技は今に続く野球だろう。慶応義塾大学を作った福沢諭吉が「スポーツ」としての野球の普及に努めたのは有名な話だ。その福沢諭吉は「学生に何故スポーツが必用か」を説いているのだが、そこには日本文化の「道」と西洋文化の「スポーツ」を融合させる考察が少ない。新しい概念の「スポーツ」を語るあまり、日本古来の「道」の精神は明示的には語られていない。 道を究める精神は用語は違うがスポーツにも包含されている。身近なものではゴルフが近いだろう。ハンディを持って競技する精神は「その日の努力を称賛する」ってスコアーの評価に繋がっている。 そもそも「道を究める」は自己との闘いであって、相手との勝敗は関係無いのだが、スポーツには試合があって勝敗がある。ただ、勝敗がスポーツをカレーライスに例えると脇役の福神漬けのようなものなのだが、これを受け留める側には古来の「勝ち負け」の感覚が残されているのだろう。 サッカーのJリーグが始まった時に、チェアマンだった川渕氏は「日本に、体育じゃなくてスポーツを根付かせたい」との名言を発したが、昨今のスポーツ競技団体のゴタゴタ(興行でありスポーツでは無い大相撲も含めて)を、「道」と「スポーツ」と「勝敗」に焦点を当てて考えてみるのも一興かなと思う。 因みに私はラグビーを経験しているので、アメフトがスポーツなのかには懐疑的である。選手を駒のように監督がコントロールするのはスポーツでは無いと思っている立ち位置を表明して先に進む。 |