「組織論」無き組織の崩壊が始まる

発端は相撲協会かなぁ
 昨年の年末から多くの団体、特に体育系(スポーツの用語はおぞましい組織なので使わない)の問題点がマスコミを賑わしている。ま、マスコミは数字(視聴率、コマーシャルの売り上げ)に敏感なので、必ずしもマスコミ報道をもって「世相」と言うのは危険なのだが過去に無い組織の内部告発で組織が揺らぐ状況が起きている。昔は内部告発なんてのは無くて悪い組織は悪いなりに団結していたのだが。
 一連のマスコミが取り上げた組織は、大相撲協会(高花田)、日大アメフト(田中英寿理事長)、日本ボクシング連盟(山根信、終身会長)とかになるかなぁ。ま、女子レスリングも入れたいけど学園内の騒動でしか無いので、これを入れると阪神タイガースの球団運営問題まで範囲が広がるので外しておく。
 一般的な用語で「組織」と言ったが基本的に名前は様々だが人々が集まった集団で「冠」を持っているものを組織と定義しておこう。だから世の中には様々な組織が存在する。
 本稿ではその中に地方議会を入れているのを予めことわっておく。組織論が無い組織はやがて腐っていくってテーゼの反面教師として地方議会が位置付けられなくてはいけないのだが、個別の事象に着目するあまり、本来の「あるべき姿」を見失ってはマスコミ支配の社会しか生まれない。
 そもそも、顕在化した事象は水面下の何が原因なのか。そこが一番大切な事なのだが、一部のジャーナリストは書籍等で的確にまとめているが、マスコミは皮相的に流しソーメンしてしまう。
 70年代の学生運動を経験した身(AI応用の「先輩風検出機能」がブォーンとファン全開になるかもしれないが)としては、組織は立ち上げると周辺のバイアスのコントロール下に置かれる。ま、立ち上げた奴が母体のシンパだからなのだが。そして「排除の論理」である。
 権力(決して「権威」では無いので言葉は大切に)を持つと自分のしたいことが出来るって組織論は無いのだが、多くの組織では「権力闘争」が主眼になる。しかも日本の戦後教育の欠陥は「数の論理」が組織運営の基本の民主主義だって論理だ。
 実は日本には江戸時代から「親分が組織を支配する(当時は「組織」って概念も無かっただろうけど)」が日本の文化に定着していた。
 その組織が「組織論」も無くて集まってエセ民主主義の運営として「理事会」とか言う組織を使った運営が破綻しているのが昨今の状況だろう。
 そもそも、組織は規模により「直接民主主義制度」なのか「代議員制度」なのか、その選択に「組織論」が不可欠なのだが、小学校の「ホームルーム」感覚しか無い組織が組織論欠如故にマスコミの「飯のタネ」に晒されているのだろうなぁ。

構成員に「組織論」が欠如してる
 あ、構成員てのは893の話では無い。基本的に組織には構成員(この表現で良いのかぁ)によって成り立つ。その組織がどのような運営をされているのかは今のネット時代で入手可能だ。でもね、組織の構成員には組織を運営する責任てのが有るでしょう。全てトップ任せでは893と同じで責任を他に委ねる責任放棄になるのだがなぁ。その責任が「情報を公開すれば民主的」とか「言ったもの勝ち」になってないかなぁ。
 ここから地方議会の「組織論」に展開します。山根とか田中とかの「新アンガールズ」でここのページにたどり着いた方には申し訳ありません。
 組織は集団であり人々の集まりです。そこに議決権を持たせるために代議員制度を使います。ま、その賛否はありますが、ここでは触れません。
 日本には地方自治制度が作られてる(ま、どうして作られたかは今回は触れませんが、数万人の雇用を生んだってのは事実ですね)地方議会の構成員の大半は地元の個人事業主」なのが現状なんですね。ま、小樽市とか具体的に市町村名を上げるだけの情報は持ってますが、基本的に個人事業主に配慮して役場が動きます。ある意味で立法府じゃなくて行政(役場)に介入する権限が町村議会議員の仕事になっているのが現実。それは与えられた組織に帰属して、本来組織とての使命を全うするって行動を拒否した姿勢で、「山根体制」と同じ穴のムジナで、もっと悪いのは税金で食っているってことだろう。
 地方議会は法律で(ま、GHQが作ったとまで過激な表現は今回は控えるが)定められた既得権って「必要悪」なのかなぁ。そのあたりを分析してみると、元凶が見えて来る。
 地方議会にも何故か国政の政党が存在する。そもそも「政党」ってのは憲法に明記されてない制度なのだが国会では勝手に「政党助成金」なんて制度を立法化している。憲法に無い「政党」が唯一明記されているのが「政党助成金制度」だ。だが、ジコ中が決めた勝手な制度なのだが国民は異を唱えない。不思議な制度だ。
 多くの組織(国政選挙での有権者を含む)は象徴としての責任者を祭り上げておいて、構成員としての責任を回避している構造になっている。
 例示すれば地方議会だろう。
 組長が責任者で構成員(なんか、表現に問題あるかも)には責任が無いって感覚だ。これはマスコミの「犯人タイホー」的な行動に起因する。
 組織は構成員で構築され、責任は組織にあり、組織のトップだけで負えないのだって感覚がマスコミに無いようで、その組織論を考える必要がある。
 もっとも「代表」なのだがら代表の責任はあるが、組織の職務(責任)が全うされてないのは代表は負うべきだが本質は組織にあるのだ。

目的無き組織は不要な組織
 組織は何故存在するのかと考えると、実は「束ねて存在をアピールする」に帰結するのではないかと思う。そのための成果・実績がトップに課せられた仕事とまでは良いだろう。だが、物事の判断基準の常だが「社会」を見通せる力がトップには要求される。つまり、組織の長として他の組織(社会)と調整する機能が求められるのがトップの仕事(責任)だ。
 ま、これを組織の外交と呼ぶと、組織の「内向」はトップに課せられた責任では無い。それはナンバー2の仕事で、そのために側近が存在する。
 この視点から「今そこに存在する組織」を見てみると、多くの組織のトップがナンバー2なことが多い。つまり「外交」では無くて「内向」に熱心なのだ。
 本来組織を立ち上げるのは社会に対して認知度を上げるとか広報的活動の意味が強いのだが(一部の政府の補助金で運営されてる団体は除く)その責務を担うのはトップの責任だ。その活動を行っていない組織が多すぎる。
 民間の株式会社で言えばトップは代表権を持つ社長なのだが、組織運営に長けているが故に「外交ベタ」が多いのが現状だろ。
 そして「組織」は閉鎖的になる。
 その体制が積み重なると、一般社会の価値判断から乖離して「なんでやねん」って事になる。
 昨今の多くの組織運営の稚拙は、目的を見誤ったトップの行動とそれを諫めない取り巻きの組織論の欠如に起因しているだろう。
 組織化する目的は何かって基本を見失うと組織は彷徨する。
翻って地方議会を見ると、同じ事が起きている。町内で完結の限られた集団だ。そもそも住民の視野が町内なのを、あえて町外に向ける「外交」がトップである組長の責務で地方議会もそれを支援する必要があるのだが、町内のゴタゴタ苦情請負人なのが実態だろう。
 それは行政の仕事で立法府である地方議会の議員の仕事では無い。地元の苦情を伝える地方議員ってのは設立の趣旨に反するのだが、今は「当たり前」になっている。 立法府の気概がない地方議会は無用の長物なんだが、誰も改革を唱えない。何故なら「居心地」が良い集団が立法側に居るからだ。
 組織論を書く前にかなり長文になったので、「続組織論」で企業と行政と組まれた組織の組織論の無さを検証してみよう。

button  【続】組織論。構成員にこそ責任がある
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2018/08/03
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