北海道の鉄路>バス転換が進みつつあるが遅い

バス転換が既成事実な路線
 北海道の鉄路はなんだったのかを歴史的に考察すると、基本的に石炭を運ぶために敷設されたってことだろう。民間の鉄道が山ほどあった明治の時代を経て国鉄に統合されて、その組織の中で育った巨大な労働組合故に経営と対峙する職場が生まれて、それを強引に「民営化」って手法でブッタギッタのが中曽根内閣だろう。
 ま、歴史的な経緯は起きてしまった事なんで戻せないのだけれど、背景を理解しておくことは大切だろう。
 北海道の鉄路は石炭を運ぶ為に出来た鉄路で、それを戦争のドサクサの国策で統合したのが国鉄で、さらに分割民営化の荒らしに晒されたのだ。
 どう考えても北海道の鉄路は石炭を運ぶ民間の路線が発祥なのは明らかで、このあたりは小樽市にある総合博物館でも展示されている。私の所属する勉強会で強引にここを見学コースに入れたら「北海道の鉄路って今の近鉄以上じゃん」って言っていたメンバーが居たけど。北海道に沢山「民間鉄道」があった事実は意外と知られていない。その民間鉄道が運ぶものは「材木と石炭」だった。
 そのついでに旅客を乗せていた歴史は昭和40年代のエネルギー政策の転換まで続いた。当時は貨客鉄道ってのが当たり前で、駅に到着した列車はホームには客車が停まり、その後ろには石炭車が連なっていた。もちろん牽引はSLで駅では給水(蒸気発生のカマの原動力)して、次の駅に向かった。
 駅には石炭を満載した貨車が待避線に並び、次の「貨客鉄道」に連結を待っていた。
 母方の実家が道北の名寄市なので、もの心ついてからは毎年夏休みは列車(国鉄)を利用して母の実家の名寄市に小樽市から帰省の旅をしていた。もちろん鉄cyanのDNAはこのころから有ったので鈍行(って、今の人解るかなぁ)の各駅停車なんで8時間くらいかかった。その体験が今でも続いているのだが、当時の「国鉄」は子供心に偉大な存在に見えた。何故なら、自分を運んでくれるって事では無くて、貨物の夜行列車の最後尾に小さい車掌の居る車両があって、ここが描くテールライトを見て、乗ってみたいけど、それには仕事で就職する必要があるんだろうなぁと漠然と思っていた(小学生の頃)。
 実は当時の夢は貨物列車の最終連結の車掌車に乗りたいってことだったんですよね。
それがかなわない夢と感じたのは高校時代かな。当時の国鉄には労働組会があって、その行動が常軌を逸してると気が着いたのですね。
 ま、当時は70年代安保闘争の時代で国労さんも頑張ったけど、なんか他人事だったのは学生なんかの活動家の相手してられんって危機感があったのかなぁ。

国鉄の「DNA」は残念ながら生きている
 私は当時の国鉄の労働組合の活動を是々非々で見ているが、無理筋は無理筋だろう。大学生になって北見市に居たのだけれど、当時、なんで仲良くなったのか思い出されないのだが、北見市役所の坂を駅方面と反対方向に下った所に「みちる」て居酒屋があった。
 そこに通う国労のシトと何故か議論する事が多かった。ま、おかみさんが良い人で議論が平行線になった時に「おもしろい、ま、両方の話は参考になった、その分を奢ったるわぁ」と盃に日本酒を注いでくれた。
 大学の卒業が決まった時に挨拶に行った家庭教師をやってた家(建設業の家)で「これ、もってけ!」と高価な日本酒の一升ビンをもらったのだけど、これをお世話になった「みちる」に下げて行って「供託(笑い)」して、語った。
残念ながら国労のシトは居なかったのだけれど「おかみ」と乾杯して「来たら奢りだって注いであげて」って言ってビンを置いてきた。ま、その後のことは知らないけど。
 当時の国鉄にはポリシーがあった、それは「労働環境の改善」ってテーマなんだけど、そこに無理があったのが1975年の12月の国鉄全面停止のストライキだろう。私は当時今で言う「就活」の真っ最中だったが北見からの移動が制約されて人生を左右するような問題に遭遇した。北見市から札幌の会社の採用試験場に行けないのだ。
 石北峠を超える交通機関は今のように「都市間バス」が無かったので、長距離トラックのヒッチハイクしか無かった。車を持っている学生が友人に居たのだけれど、12月なので当時のスパイクタイヤを履いてないので峠越は無理。自分が乗っていたのはバイクだったのでとても氷点下の雪道の石北峠を越えることはできない。結局、女満別からの飛行機が唯一だったんだが、予約しようとしても満席で搭乗券が得られなかった。
 てな経験をその店で議論したのだけれど「俺たちの生活改善も考えてくれよ」と言われた。当時の労働組合には主張を通すには「威嚇攻撃」って風潮があったのだけれど(ま、今の時代の野党に受け継がれてるかも)利用者ファーストなんて発想は無かったのだろう。何故かと考えると、列車の運行が仕事で、何を載せてるかは意識の外なんだろう。
 つまり、先に書いたが「石炭運ぶ」は「人を運ぶ」かの違いなんかどうでも良いって感覚のDNAが国鉄から受け継がれてるのだろう。そこが武士の商法につながて、今の「維持困難路線」宣言に繋がっている。
 何を運ぶかって視点が無いので、経済を支える鉄路って発想も無い。
 一週間も鉄路を止めた国鉄、これと同じく最近2日も送電を止めた「ほくでん」なんか共通するDNAがある。
それは、利用者を見下した組織運営てことだ。

ごねた当別町の要求を飲んだのは何故?
 組織を運営する、ま、言い換えると企業を運営するには経営者に哲学が必要だと思う。企業なのだから株主への利益還元って運営を迫られるのだろうが、実は企業は存続の手段として「株式会社」だけが選択肢では無い。商法の改正によって「同名会社」って手法がある。株主が構成員で構築される企業制度だ。
 代表的な組織に「西友」がある。ま、苦し紛れかと言うと実情は北海道では少し違って、余市市でスーパーを始めた大川さんが北海道西友を立ち上げて、それが全国組織の西友傘下になって、その全国の組織の西友が経営不振でウオールマート傘下になったのだが、今の北海道の西友は「同名会社」になっている。
 北海道の鉄路は「同名会社」にすべきだと思う。該当する市町村も「当事者」意識を持たないと駄目だ。その意味で学園都市線のバス転換にそもそも鉄路が無くならない当別町が「本数を増やせ」と要求したのに対してJR北海道が了承したのは納得がいかない。
 「テメーラ関係ないだろうがぁ!」と言えないのが今のJR北海道なのかもしれない。兎に角廃止すれば手柄って交渉では足元見られるんだがなぁ。
 社長が代わったら難癖付けて反故にするってことを当別町は知ってて演技してるんだろうなぁ。まったくの「茶番劇」(文字、そのまま)
 今の課題が乗り越えられれば良いってJR北海道の経営姿勢は先に書いたように「国労のDNA」なんだなぁ。で、組織が潰れたんだけどね。
 もっと長期的な観点で北海道の鉄路を考える必要があるのだが、その取りまとめ役は北海道庁にある。高橋はるみ知事は役人(経産省出身)なので、イノベーションが出来ないで参議院選挙に出るみたいだ。道民を舐めてるんかぁ!
基本敵に切り捨てのJR北海道の鉄路戦略に「ごり押し」した当別町(なんで、人が乗らない路線で「本数を増やせ」が要求事項なんだぁ!)
 結局、鉄路は撤退って大きな方針は企業として「再編成」なのか「事業撤退」なのか。私は新幹線だけが食い扶持って発想を感じる。それが間違いなのは歴史が証明してくれるだろう。
 今回提起すらされてないが、函館から札幌まで新幹線が繋がった時に函館本線はどうなるのか。結局は廃線だろう、あの「栄光の山線」が無くなるんだ。
 先人の努力が歴史の社会に入ってしまうのは悲しい。何故、最初が函館本線で次が室蘭線だったのか。
 鉄chanな私は「栄光の山線」が無くなるのはしょうがないと思うけど、大都市札幌を中心とした交通体系では倶知安町までは(なんせ、新幹線くるからね)生活圏であると思う。
 札幌市は住宅街を北に延ばすのか、南に伸ばすのか、デルスウザーラの法則ってのがあって、都市は西に延びる。ただ、札幌市にとっては西の小樽市が障壁でもあるのだが。  

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2018/10/20
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