日産ゴーン会長への批判は労働文化の違い

産業革命に端を発した「労働力」
 何を「産業革命」と指すかは議論沸騰だろうが、ここではワットが蒸気機関を実用化(発明とは言わない)したのが産業革命と狭義に使っておく。一方ではその機械が稼働するために必要な労働力が求められた。端的なのは織物工業なのだが、基本的に機械は看視する人員と下流工程をサバク人的労働力を必要とする。
 無人トラクター(ま、表現として「自動トラクター」を使わないのは情報発信側の保身だろうが)も同じで、その運用を可能にする監視する労働力が必要になるのは歴史の必然だ。
 そもそも「労働力」って概念は産業革命以降に発生したもので、それまでは生産力は農耕と森林に基盤を置いていた。つまり、自然の生産力を補助する(これまた、ある意味で監視する労働者なのだが)のが労働だった。生産の現場で生産に直接携わるのが労働であった。
 工業機械がエネルギーを得て稼働する機械であると同時に、人間はその機械の生産力を今で言う「付加価値」を高めるために携わることになる。その産業革命がもたらした人類の生産構造の変化を語ったのが名著と言われている「資本論」である。この著書は当時の「現状分析」と当時の経済構造の変化が行き着く先を予言したものだが、その後に「共産主義」が出てきたのがボタンの掛け違えだろう。
 「働く事」ってなんなんだって疑問(疑義、疑い)を常に持ちながら日本の社会も昭和30年代に高度成長社会に突入したのだが、基本的命題が西欧も含めてある意味で「未だに」定義されていない。
 労働力を資産(資金)として、それを提供して対価(賃金)を得るって資本論の時代と今の時代は同じ感覚なのだろうか?
 労働力って機械生産力と同じ生産性の尺度で計る対象なのだろうか。
 考えを深めると「労働力」って概念は産業革命時代の概念で、それで組み立て工程を行っていた自動車産業(ま、筆頭はトヨタの組み立て労働力対応に起因するのだが、ここは別な機会に論じることにする)には好都合だったろう。
 巨大な生産が可能な機械は、結局、それに携わる「労働者」を必要とした。
 それがマルクスが資本論で予言した労働者の価値の定義だった。
 実際に日本では巨大資本が統治する企業ってのは有るけど、基本的に財閥崩壊で脇の下が甘くなりすぎて、多くのニッチ産業が起業している。
 が「労働力」の概念は、逆に工業生産から第三次産業のサービス業まで浸透していて、知的生産性も時間拘束って単位でしか測らない社会に帰結してしまった。

日本の産業革命は明治維新から
 日本の「労働力」の考え方も産業革命から遅れること100年ほどで始まった。それまでは工業の経済では無くて商業の経済だったので、江戸の武家社会と関西の商人の世界が両立していた。商人の世界では労働力ってのは生産するファクターでは無くて流通をコントロールするファクターだった。だから、労働生産性なんて概念は無くて番頭と丁稚の世界であった。唯一、労働生産の階層は大工に代表される職人の世界だったが、これは職人と弟子の世界で組織としての経済行動には至っていない。
 今で言うサラリーマンが始まったのは、明治維新の富国強兵による産業興しかと言うと、必ずしも今のスケールでは比べられないだろう。
 明治維新以来の富国強兵が産業界に何をもたらした(起こした)かを書かれた文学作品が少ないが、五味川順平氏の「戦争と人間」は参照に値する。たまたま、小学校の時代にこの小説が映画化(その評判がどうだったか知らないが)されるロケ地が小樽の昔の運河沿いで撮影の見学に行ったので大学時代に原作を読んだが、戦争は経済によって起きる(惹起される)って視点は重要な考察だろう。同じく国内の工業生産が高まると売り先であるマーケットを求めて海外に進出するってのが行間に書かれている。あの時代、日本は「生産過剰」状態であったので大陸に進出したって歴史観もありだろう。
 で、一方で、その国内生産は今の感覚で言う「労働力」とは少し違った。
 究極の単純労働とでも言えば良いのか、機械の補助要員が人力でそのために賃金は極端に安く、労働時間も今では考えられないほど長時間だった。
 ま、今の若い人には土曜日は休みだろうが、僅か30年ほど前の日本社会では土曜日は「半ドン」って午前中だけ勤務する曜日だった。当時若きサラリーマン(笑い)だった私は、毎週訪れる中途半端な出勤に(忙しい時は土日も無く休日出勤を強いられてたのだが)暇を持て余し、昼は実家の近くのラーメン店で「五目ラーメン」を食して帰宅(当時は実家に住んでいた)のだが、ラーメン店の親父と馴染みになって「これ試してみて」なんて新商品の味見役なんかしてたほど定番の勤務の状況だった)。
 話が逸れた(Any Way)。
 今も調べ中なのだが、当時(明治、大正、昭和初期)の「労働力」ってのは女工さんに代表される今で言う軽工業が主体で、重工業は男子の職人の世界、経済の基本は農業で富国強兵を唱えて増えた人口を支える経済は農業から工業への変革を迫られていたのだが、実は兵役が雇用を支えていた面がある。
 だが、兵役は年齢層が狭いので退役した段階の世代を受け入れる受け皿として産業が未発達だった。だから第二次産業(この分類には私は懐疑的なのだが)に分類される工業が未発達だったので第三次産業であるサービス業が開花したのが大正デモクラシーの時代背景だったのだ。ま、これを「大正時代のバブル」と呼んでも良いかもしれない。

経営者と労働者はシナジー(相乗効果)
 さて、日本の経済活動の歴史から現在に戻って再度見直してみる。
 日本の経済活動はマルクスの「資本論」に描かれたようにはならなかった。何故なら先に書いたように江戸時代、そして明治維新を経ても経営は「番頭と丁稚」の文化を持っていたから「経営者」って概念がほとんど無かった。
 あえて言えば「旦那はん」が経済の基本単位だろうか。
 その基本は今の言葉で言うとWin-Winの関係だ。経営者も従業員も仕事を通して幸せに成ろうって共通な価値観が江戸時代の丁稚の時代に形成された日本の「労働文化」だろう。丁稚は頑張れば番頭になれて、暖簾分けを経て経営者(旦那)にもなれる。経験を積み重ねることにより組織のマネージメントが出来る時代。つまり、社会の変化が現在と比べて緩やかだったから出来た「労働」への感覚。
 これが、明治維新以降は経営に参画する丁稚以外に、単純に「労働力」って層が生まれる。「野麦峠」なんかの女工哀史は、この層だろう。そこから大正デモクラシーが起きるのだが、このあたりは敗戦とともに見直されて、高度経済成長の時代には「社会党」に代表される労働者の権利(この場合の労働者は、前述の「女工哀史」に近い層が前提だが)が進められて江戸時代の価値観は衰退したように見える。
 実は日本的マネージメントには「女工哀史」の層は無い(実際は、これが非正規社員なんだが)と見せかけて、正社員は「丁稚」、つまり、何時かは経営側になれるって「番頭はんと丁稚どん」のマネージメントが今でも生きている。
 これ自体は文化なので是非を語るものでは無いか、今回の日産のゴーン会長への批判」(その是非でヒョーロン家は忙しいようだが)以前に「労働とは何だろう」って観点に立つと文化ですらあると考える視点が必要だろう。
 日産のカルロス・ゴーン会長には多くの国で生活したにも拘わらず、それぞれの国の文化の理解が乏しかった。
 昔の芸人(ま、例えるのが妥当かどうかは迷うが)には「芸人に、上手い下手の違いはなし、それぞれの土地の水に馴染めば」って言葉が有る。日産のカルロス・ゴーン会長は「水に馴染まなかった」のだろう。実は、これが致命傷なんだなぁ。
 「俺がルールブックだ」では経営が出来ない文化(水)が日本なんだなぁ。

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2018/12/02
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