全共闘は文化、総括なんかあり得ない

総括せよ! さらば革命的世代-50年前、キャンパスで何があったか (産経NF文庫) 文庫
産経新聞取材班 (著)

当時の大学の雰囲気を知らない
 この書籍に興味を持ったのは、最近亡くなった佐々淳行さんが著書の中で「当時の全共闘の学生運動は失敗した原因を総括してないなぁ」って意見。確かに警備側から見れば負ける(鎮圧)されるのが必然の「闘争」する行動は奇異に思えただろう。
 その意味で失敗した理由をPDCA(Plan Do Check Action)の活動の中に組み入れて語る必然は理解できるが、その全共闘の「起点」を歴史から知るのは間違いだろうなぁ。
 この書籍を読むと、新聞記者の「作文(記事)」にありがちな、新聞に書かれている過去記事を積み上げて全体像を描くって情報処理の間違いが新聞社の定番になっていること。全共闘に関して報道されない事柄に真実が潜んでいるって真摯さが無い。
 新聞記事を検索して全体像を描こうとすると陥るのが「新聞記事は非日常を書く媒体」を無視した理解だ。新聞記事は聞屋(ぶんや、新聞記者)の「犬が人に噛みついてもニュース(記事)にならないが、人間が犬に噛みつくと記事になる」が「あたり前田のクラッカー」なのだ。
 それが蓄積された新聞記事の「ビックデータ」の本質であって描かれる特異な社会現象を集めたのが新聞記事の「ビックデータ」である、そもそも起点の情報源がマスコミの「ヒョーロン」なのが本書籍の限界だと読み進めて解って来た。
 担当したのは産経新聞の関西支局(大阪支局だったかな?)なのだが、記事を記載した記者達は当時の全共闘を知らない世代だ。で、取材の手法が「事件の流れを追う」みたいな新聞記事のデータベースを検索した結果のインタビューに終始している。
 この流れで歴史を描こうとすると歴史が「真実」から「事実関係」になってしまう。誰でもが納得するために「事実関係」を描いて、本来伝えるべき「真実」が描かれてないのだ。HistoryはHis-storyになるのは「真実」をつまみ食いして納得できる作文にするからだ。
 だからこそ多くの当時の全共闘世代の大学生に取材してもらいたいのだが、何故かそこは抜けている。
「目立つ奴から情報を得る」って商業マスコミの宿命は解るが、この書籍も当時の大学に存在した「全共闘文化」を描けていない。
 私(わたし)的には愚作の書籍に金を払ってしまったって後悔(言い過ぎだけど)を禁じ得ない本だと読後に感想を持った。
 だが、本棚の片隅に「物書きの反面教師の書籍」として立てておくのはお勧めする。

文化に「総括」は無い
 実は浪人を経て大学生になったのは1971年で、そのプロセスについては当時の時代考証として私小説に書いている。ま、1970年の私はここに居たのだが
 大学の入学試験に合格して北見工業大学に入学したのは1971年になる。
 当時の学生運動は政治的関心度合いによって分けられるが、基本的に大学生を分類すると以下の3つだろう。
1)セクト層
2)ノンセクト・ラジカル層
3)ノンポリ層
 ま、3)の「その他」を含めるのは弱気だろうって批判もあるのだろうが、当時の大学生の構成を前提に話を進めるのが妥当だろう。
 全共闘はこの分類の出発点で大学生の政治活動の入り口であった。当時は世界的に「スチューデント・パワー」が華やかな頃で、政治活動に興味を持つ大学生の割合が現在よりも高かった。
 新聞記事だけの知識であの時代にアプローチすると「全共闘→武装闘争→連合赤軍→あさま山荘事件」と新聞記事には書いてあるだろうが、基本的に「事件」を扱う「マスコミの手法」を積み重ねているだけだ。その矛盾に気が付かない当事者この書籍の著者グループ)の勘違いがここにある。
 時代を考えると1969年に前後に始まった「全共闘」と1974年に始まった「全キャン連(全国、キャンディ−ズ連合)は同じ起点の大学のキャンパスで発生した文化なのだ。
 文化には浸透に地域的な格差が生まれる。実は北見工業大学がバリケードストライキ(以後、バリ・スト)を行ったのは、笑い話ではないが1971年である。1969年1月に、すでに機動隊による東京大学安田講堂封鎖解除が行われ、北海道大学のバリ・ストも1969年11月に機動隊によって解除されてるのに何故か遅れて活動がなされた。
 基本は当時の東京や札幌からの「落ち武者」が北見工業大学で煽ったのだが、ま、時代に乗り遅れないためって様相もあったのだろう。だから「文化」なのだ。全国一斉に蜂起した訳では無い。
 当時の大学進学率が15%と上記の書籍に何度も出てくるが、これは大都市の私学を含めた計算だろう。私の感覚では地方の国立大学への進学率は5%程度と(当時は地方には国立大学しか無かった)計算される。私学は地方には存在しなかったので、ま、当時の「大学生」ってのは都市部である東京、大阪、名古屋に多い「人種」だったのだろう。

経験は再現できない歴史
 では、その総数を計算してみよう。
 当時は成人式を迎える人口は200万人だった。現在は100万人を切るのだが、当時の大学生の総数を計算してみる。
 200万人から進学率(ま、15%を使う)を掛けると30万人。これに4年制大学なので4倍すると120万人。
 この中に先の3分類の大学生が存在したのが1969年頃だろう。
 長くなるがあえて、先の3分類を検証しておこう。
1)セクト層
2)ノンセクト・ラジカル層
3)ノンポリ層
 全共闘は武力闘争を指向しない大学生の「文化」(政治)活動が発端だった。北見工業大学でも初期の頃は「入るのも自由、出るのも自由」って政治勉強会みたいな存在でこの世代に遅れて到達した私も大学の寮に住まいしていた関係から全共闘の各種集会の情報が入手できたので参加していた。
 全共闘は「来る者は拒まず、去る者は追わず」を基本にしていたので、まさに勉強会であった(このあたりは全キャン連と同じなのだが)。ところが「去る者を追う」組織(セクト)が現れた。民青がオルグと称して学内で公然と自分の組織への勧誘活動を始めた。
 全共闘の集会に参加すると民青に追いかけられるってことで、新規の参加者が極端に減って、会合も相変わらずの同じ顔ぶれになっていった。そして、先に書いた北大(札幌市)や弘前大(青森県)からの「落ち武者」の参加である。彼らは公然と「偽名」(変な表現だが)を使うので氏素性を調べることが出来ない。北大の友人に聞いても「そんな奴知らないなぁ」となるが、実は後から解ったのだがその「落ち武者」には何故か「中核派」が多かった。
 そのような雰囲気が当時の北見工業大学のキャンパスの様子だ。ま、昭和の言葉で言えば「風俗」(今はいかがわしい意味で使われるが)であった。当時の学部で寮(北苑寮(ほくえんりょう))に住まいしている者は全学生の10%程度であり、多くの学生は下宿住まいであった。
 そのため学生運動の状況を知らずに「飲み込まれた」者が多かったが、セクト層にまで上り詰めたのは5%も居なかっただろう。当時の全学の学生が800名程度だったので40名程度+外人部隊でバリストが決行されたことになる。もちろん、寮生200名の中では私の知る限りは5名程度しか(民青は除く)バリ・ストに関わっていなかったと思う。
 上記の3分類で言えば3)のノンポリ層が「二階級特進」とでも言いうのか一気にセクト層に入る例が多かった(多分に全共闘での勉強不足による情報不足と経験不足の下宿住まいの奴が多かった)。逆に2)のノンセクト・ラジカル(私もそうだが)から1)に向かう人間は少なかったと思う。それを防いだのは実は私の寮での説得が効果的だったのだが(自慢話か!)。それを最後に書いておこう。


大儀無き闘争は自壊する
 遅れて来た北見工大のバリ・ストの大義は「国立大学の学費値上げ反対闘争」であった。そもそも月額1000円の学費で、私の所属した電気工学科の実験なんかでモータをぶん回すと電気代も出ない学費だったのだが、それを3000円にするって国の方針に反対する運動を貫徹するためにバリ・ストを打とうって話が発端だった。
 「モーモー、牛です」と言いたくなるような世界で、何かにかこつけて騒動を起こすのはミエミエで、だから文化なんだろうと当時から感じていた。
 その視点が無くて「全共闘を総括せよ」ってのは敗北したからの総括であって、文化には総括なんて無いのが先の書籍にも「忖度」されてない。だから、その後の全キャン連と同じ感覚なんだが。
 当時の寮では建物の構造に由来するのだが、4階建ての東西2棟で8つの分科会議が行われる。各フロア(2人部屋が12部屋)で部屋から椅子を持ち出して廊下で会議を行う。会議の主導権は反民青のノンセクト・ラジカルの先輩で、議題はバリストしてる全学闘争委員会(名称は正確に覚えていない)から依頼された「学費値上げ反対闘争に寮として参加すかどうか返答せよ」に対する返答の検討会議であった。
 廊下での会議は「いっちょやったろかぁ」的な(だから「文化」なんだが)って雰囲気に流れていた。会議か終焉(いっちょうやったろか)を迎えた頃に発言を求めて(だから、私は嫌われる)に以下の趣旨の発言をした。
 国立大学の学費は本来ゼロであるべきだが私立大学との格差が問題視されてるのだろう。その意味で学費値上げには反対だが、考えてみると我々現在の学生は今の月額1000円のまま卒業していくことになる。ある意味で「既得権益」を得ている我々が反対運動を行っても世論の支持は得られるだろうか(当時は毛沢東語録なんか読んでいて受け売りなんだけどね)。
 基本的に「闘争」ってのは世論に訴えて支持が得られる必要がある。今は学生運動に寛容(1971年の秋)だが、そこに「世直し一揆」みたいなシンパシーを感じているからじゃないだろうか。自己都合の学費値上げ反対運動は矛盾している。本来、今の高校生や予備校生が起こしてこそ世間の賛同を得られるのであって、既得権益に胡坐をかいた我々が行動してもやがて矛盾は暴かれる。
 私は奴ら(全学闘争委員会)にNoの返事をするのが理にかなっていると思う。
 未来は良く解らないが、少なくとも今時点で学費値上げ反対闘争なんて我々のテーマでは無いだろう。

 ま、この意見を先輩は深く納得して、寮の全体会議でも述べたそうだ(後から知った)のだが、実は私はバリ・スト反対派の首謀者として全学闘争委員会(名称はイイカゲン)に狙われる存在になった。なんせ当時の「中核派」は暴力革命路線で、反対する者は「殲滅」って発想のセクトで、何故か革マルと暴力沙汰を起こしていた。既に先の分類で言う「セクト層」は内部(何か内部かは定義が難しいが)抗争に明け暮れていた。
 そこで寮に居られなくなって出る事にして当時卒業する先輩のアパートを譲り受けたが、翌年の「あさま山荘」事件で社会の色が変わり(ま、文化と言うかトレンドなんで空気に流されるのだけれど)一気に勢力を取り戻した正常化の勢力によって(もっとも、寮に外人部隊も含めたバリ・スト組に殴り込み掛けられたが)学内は平常化して行った。バリ・スト組は公務執行妨害で網走刑務所の拘置所に収監されて行った(ま、それが「箔が付いた」と勘違いした奴も居たけど)
 最初の入寮時に同室だった先輩がこの件で中核派の攻撃で自殺したり、入学同期の奴が理由は解らないけど屋上から飛び降りたり(命は助かった)様々な事が起きた時代。
 それは悲しいけれど「文化」なんです。
 この書籍が描いている「全共闘時代」を信じて活動する輩が出るのは罪ですよ。
 一番腹が立つのは「資金源」をまったく追及してない聞屋(ぶんや)の姿勢ですね。当時の組織的行動を支えた資金源は何だったのか。それを知らないのか知ってて書かないのか、産経も所詮「ここまで」のマスコミなんでしょうね。
 文化は体感しないと解らないんだぞ>産経新聞。
 ちなみに私は「全共闘」を離れて「全キャン連」、「島田奈美ファンクラブ」と「文化」を渡り歩いてきた(笑い)  メリー・クリスマス!
button  「組織論」無き組織の崩壊が始まる
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2018/12/24
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