論議無き民主主義って有りえない

主張を許すのが民主主義
 「何を言っても良い」と言うのは誤解を招くが、基本的に言論の自由は民主主義の基本である。「情報は民主主義の糧である(c)ジェファーソン」は正しい。
 しかし、最近SNSなので目にするのだが「人の言ってることに反論するのは言論弾圧だ」って身勝手な発想。
 言論の自由とは、発した言論に責任が伴うし、その発した言論に反論するのも、これまた言論の自由なのだ。反論が「言論弾圧だ」と叫ぶ本人の言論の自由の理解度の低俗性にはおそれいるのだが、これを徒党を組んで「言論弾圧だぁ」と行動するのは、もはや、民主主義の破壊行為である。
 特に東京新聞の女性記者の官房長官会見での態度を非難しているのでは無い。ものの考え方の本質を見誤っている「言論の自由」の勘違いを指しているのだ。
 「自分の主張は正しい、それに反論するのは誤っている、だから自分に対する言論弾圧だ」って論調は国家権力が報道規制を行っている場(ま、北朝鮮とか中国とか)では正当かもしれないが、今の日本のSNSでは通じない論調だ。
 その事を理解して発言(書き込み)しないと、自分が言論弾圧の行為者になってしまうことを自ら気が付かない馬鹿者になってしまう。
 実はSNSは個対個の会話に見えるが、実は多くの声なき(書き込まない)閲覧者が存在する。昔のパソコン通信の時代にはROM(リード・オンリー・メンバー)と呼ばれていた層だ。因みにメチャクチャ書き込みする層(あ、私か?)はRAMと呼ばれていた。RAMが何の略号なのか正確な話はおぼえていないが「乱暴な・アクセス・メンバー」かな(日本語が混じってるって)。
 その中で論争は山ほど起きたのだけれど、ある人(ROM)が「どっかなぁ、読んでる側には論争してることは解るけど、どっちが馬鹿なのか解らんなぁ」って金言を書き込んでいた。実際には双方のキャッチボールを見て「どっちがピッチャーでどっちがキャッチャーなんだ?」って疑問に等しいのだが、一理あるなと思う。
 情報のやり取りには、発端は何だったのかってことが解らないと「どっちが馬鹿なのか解らんなぁ」となるのは当然だら。
 その発端を常に明示されるのなら解りやすいが、今のSNSにはその機能は無い。
 ちなみにパソコン通信の時代にNECがPC-VAN(現在はbiglobeで、そのうちNiftyと合併)の実態を調査した結果(とある役得で入手した)では、パソコン通信の参加者は5%のRAMと95%のROMで成り立つビジネスモデルだったそうだ。

土俵上で勝負が場外乱闘
 議論には前提がある。その前提はキッチリ定義してから議論が始まる。これはディベードの基本で前提が定義されないまま議論を始めるとリング・アウトの場外乱闘になる。だから、議論の発端(テーマ)は大切なのだけれど、「言論の自由」って場外乱闘に持ち込む奴が多い。
 こちとら、メインテーマで議論したいんだけど、書き込んだ相手が何がメインテーマか解ってないのが結構居る。ま、中途半端な知識で書き込んでツッコミ入れられて狼狽して指摘しているメインテーマにはまったく知識が無いので場外に持ち出そうとするのだろう。ま、そこまで思考が長けているのでは無くて、知らないから書けないってのが実情だろうけど(あ、上から目線かなぁ)
 日本が活力の無い時代に入ったのがバブル崩壊の1990年代で、これは見事に「平成」って元号の時代に符合する。元号ってのは世界で日本にしかない制度なのだが、時間は連続するのだが、何故か、それを切って理解する習慣が我々日本人には染み付いているのだろう。ただ、「昭和」って元号の時代はその元号の性格が難しくて「戦後」なんて民間元号が使われたりした。
 そして「昭和感覚」とか「江戸時代かぁ」とかのツッコミを生む。
 実はSNSを見ていて思うのは、人間(もしくは日本社会)は進歩してないなぁって感覚。昭和の時代は劇的な社会変動(戦争、勝利、戦争、勝利、戦争、敗戦)ってミルフィーユのようなサンドイッチの時代だった。平成は文字通り「平」だった。バブルがはじけた時代であったが、加えて経済構造が劇的に変わったのは庶民には解りずらい。
 銀行が経済の血管でなくなったのが「平成」の時代なのだ。
 それを理解している経営者は「貸し渋り」とか「貸しはがし」を回避したくて内部留保に汗水流した時代が「平成」なのだ。
 これが、社会的に良い事なのかは議論があるが、基本的に先に書いたように民主主義社会では、RAMに転じて説明責任を果たすべきだろう。
 その土俵は明らかで「銀行なんか頼りにならない」って事なので、国策に楯突くことになるのだが。

二大政党制に遅れる日本
 民主主義が言論の自由によって支えられるのだが、言論とは「Yes or No」の世界では無い。一方が政策を述べ、それに対して他の方法でも実現できる、例えばこのような方法だと述べるのが民主主義の情報戦だ。
 議論を戦わす、情報を戦わし、主権者である国民の判断を選挙によって仰ぐのが基本だ。そのためには、互いの主張を重ね合わす事だ。
 日本は選挙制度は二大政党制だが政党は相変わらずの「Yes or No」の世界に留まっている。それは小泉純一郎氏が述べたように「反対勢力」との闘いが政治になっているからだ。本来、「反対勢力」では無くて「競合勢力」と競うのが二大政党制なのだ。だから、国民は両政党の意見を聞き、選挙で判断を下す。しかし、日本の民主主義は下記の図のように、「Yes or No」の世界から脱していないので、国民も選挙で「Yes or No」の世界しか選択肢が無くなっている。

 「国策の連続性」が保持されての二大政党制で、お隣の国のように大統領が変わるたびに国策の連続性が途切れるのでは主権者である国民の世界に対する信用棄損問題になってしう。実は日本での過去の民主党政権は有史以来(と、言って良いかどうか迷うが)の「国策の連続性」を失った日本国家の体験だったののだろう。
 話が飛躍したように見えるが、実は議論の基本は連続性にある。ディベードでも重要なことは不連続な突飛な話を持ち出すことはルール違反だ。対立する意見の述べ合いであっても、基本のベクトル(上記の図で言えば「国策の連続性」)を逸脱してはならない。
 現在の日本のSNSを見ると(ま、私も当事者なのだが)言論を戦わすための訓練と言うか練習と言うか教育と言うか、それが日本文化の土壌になるには、今後100年を要するのかもしれない。もしかしたら、未来永劫無理なのかもしれない。
 日本の政治の不毛の原点は日本のSNSの不毛にあるのを、気が付いている人間は少ない。多くのジャーナリストを自称したり、コメンテータを自称するシトのSNSを読むと、先の図の左側の発想なのが良く解る。
 自己主張が言論の自由である民主主義の糧であると勘違いしているのだ。
 アメリカのジェファーソンは「情報は民主主義の糧である」とは述べたが「アンタの主張が糧になるには100年遅れてるんだぁ」と言いたいシトが多い。しかも、上図の右側のスタンスの人を「御用評論家」と誹謗する。そのレトリックで言えば、自らは「反社会的評論家」なのだがなぁ。
 政治の不毛は国民の不毛所以なんだって、SNSを見て感じる昨今だ。もっとも、一番の問題は無関心なROMを決め込んでいる層にあるのも、これまた事実だが。

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2019/05/09
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