2019年の夏は「あいちトリエンナーレ」

表現の自由とは何か
 実は、この命題はかなり奥が深い。
 言いたい放題が保証されていると考える派から(私は決してそう考えないのだが)、限度があるだろう派までダイナミックレンジは広い。その中で「あいちトリエンナーレ」をめぐって名古屋市長の河村たかし氏と愛知県知事の大村秀章氏の対立も話題だが、基本は総監督を委託した津田大介氏も含めて三者の立ち位置を意識した発言と、あくまで個人の発言が混在するカオスを形成している。
 公的立場に立てば、「あいちトリエンナーレ」に補助金を支出して実行委員長になっている大村秀章愛知県知事の発言は慎重にならざるを得ないのだろうが、何処か他人事である。当事者なのだから「表現の自由を守る」と言うのなら、展示を中止しないで全責任は私が負うって毅然たる態度が求まられる。だた、実際には「名古屋市長の河村たかし氏の発言は憲法21条に違反する」と開き直る。しかも、展示は中止し、謝罪も無い。しかも展示を中止した理由が「安全を担保できないから」なのには驚く。行政のトップがテロに屈しましたと言っていてはこの国に未来は無い。
 一方の河村たかし名古屋市長の「あいちトリエンナーレ」に対する発言は微妙だ。「市長として中止しろと言ってるのでは無い。あれを見た人の意見を代弁しているのだ」は、一見正論に聞こえるが「あれを見た人」の中には展示容認の確信犯も居るので用語用法としては不適切だろう。しいて言えば「行政が補助する展示として不適切なものがある」程度に抑えておけば良いのだが、ま、こあれは河村たかし氏のキャラなので上げ足を取られないように注意することだろう。
 総監督の津田大介氏にいたっては確信犯(誤用の方)なのだから、言い訳は全て詭弁に感じる。前に書いた「ああいえば上祐」ってやつだ。しかも、責任の所在は役所にある、事前に相談してOKをもらっているって言い分だ。
 結局、誰も責任を取らずに他人に責任をなすりつける茶番劇が「あいちトリエンナーレ事件」の本質なのだ。だから、2019年の夏の話題になる。もっとも、マスコミは記者クラブ対象団体なので筆は重い。ペンは記者クラブより軽いってことだろう。

人を不快にしても表現の自由か
 残念ながら一部の表現によって不快になる人が生じるからって事情で表現が抑制されるのは正しくない。「残念ながら」と付けたのは、実際に忖度で表現の自由が抑圧されてる事象は多いからだ。例えば通称「放送禁止用語」がこれに当たる。極端な話だが「ラジオでメクラと言ってはいけないがツンボは良い。逆にテレビではツンボは良いがメクラは駄目」って忖度が昭和にはあった(今は無い)。
 NHKの自然探訪って番組で洞穴の中に生息するメクラヘビを「これ、なんですかぁ」とアシスタントが聞いたら「字幕に出てます」って解説していたからなぁ。実際いテロップには「メクラヘビ」と表示されていた。
 勝手に法律が独り歩きしてると思うのが「ヘイト発言規制」だ。表現の自由を抑制する法律だが、憲法違反の土俵に上がっていない(憲法については後述)。
 「おまえのカアチャン、デベソ」と言ったりするのは表現の自由だろうか。一国を指して「盗人猛々しい」と言うのは表現の自由だろうか。
 実は多くの場合「表現の自由」が「言った者、勝ち」で使われることがある。それは「声の大きいものが正しい」って民主主義の根幹である多数決による決済方法に起因しているのだが、真実は別な所にあるだろう。
 少数の声に耳を傾けるチャンスが実は今の社会制度には無いのだ。無いと言うと語弊があるが、日本の現状で言えば「民主主義の糧である情報」が一部のマスコミに牛耳られている現状は大東亜戦争の時代と少しも変わっていない。
 「あいちトリエンナーレ」のマスコミの報道を読むと解るのは「真実しか伝えていない」って忖度だ。
 「人を不快にしない」忖度がマスコミの論調に満ち溢れている。


表現の自由は憲法で制限される
 憲法12条をご存知だろうか。
 その条文には下記のように記載されている。
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
 表現の自由については同じく憲法の21条に規定がある。
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
 この条文を読むと、12条では国民の義務を求め、21条では国の(あくまで国であって個人や団体や地方自治体では無い)姿勢を縛るものだ。
 どうも名古屋市と愛知県の行き違いは憲法解釈の違い(互いに、自分に有利にしたい)があると見える。
 主観だが、どちらかと言うと大村秀章知事に「為にする議論」の傾向を感じる。
 河村たかし名古屋市長の発言を「憲法違反に通じる(21条)、と言う」。これは知事室の弁護士かなんかが知恵を付けたのだろうが、先に書いた憲法12条は知らないのだろうか(ま、弁護士はいらんことは言わないって保身術に長けてる「種族」なんだなぁ(あ、ヘイト発言かぁ>ワシ!)
 国民に求めている憲法の条文は主に「教育の義務(26条2項)」「勤労の義務(27条1項)」「納税の義務(30条)」が取り上げられるが、憲法12条では表現の自由を保障する不断の義務が国民にあると明文化されている。これも上記の国民の義務に使加えて考えるべきだろう。
 「あいちトリエンナーレ」は「表現の自由」の土俵で語られる話題なのか?
実は「企画がドジッタ」程度の話では無いのか。そこに大事な事は誰が当事者でどう責任を取るかだ。責任を取りたくなくて「憲法」を持ち出す(ま、裁判になったら任期中に判決は出ないだろうが)感覚は「語るに落ちた」ってことだろう。
 大村秀章愛知県知事の「オマエノ・カアチャン・デベソ」発言を次回の選挙まで忘れないことだ。

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2019/08/05
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