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表現の自由とは何か
実は、この命題はかなり奥が深い。
言いたい放題が保証されていると考える派から(私は決してそう考えないのだが)、限度があるだろう派までダイナミックレンジは広い。その中で「あいちトリエンナーレ」をめぐって名古屋市長の河村たかし氏と愛知県知事の大村秀章氏の対立も話題だが、基本は総監督を委託した津田大介氏も含めて三者の立ち位置を意識した発言と、あくまで個人の発言が混在するカオスを形成している。 公的立場に立てば、「あいちトリエンナーレ」に補助金を支出して実行委員長になっている大村秀章愛知県知事の発言は慎重にならざるを得ないのだろうが、何処か他人事である。当事者なのだから「表現の自由を守る」と言うのなら、展示を中止しないで全責任は私が負うって毅然たる態度が求まられる。だた、実際には「名古屋市長の河村たかし氏の発言は憲法21条に違反する」と開き直る。しかも、展示は中止し、謝罪も無い。しかも展示を中止した理由が「安全を担保できないから」なのには驚く。行政のトップがテロに屈しましたと言っていてはこの国に未来は無い。 一方の河村たかし名古屋市長の「あいちトリエンナーレ」に対する発言は微妙だ。「市長として中止しろと言ってるのでは無い。あれを見た人の意見を代弁しているのだ」は、一見正論に聞こえるが「あれを見た人」の中には展示容認の確信犯も居るので用語用法としては不適切だろう。しいて言えば「行政が補助する展示として不適切なものがある」程度に抑えておけば良いのだが、ま、こあれは河村たかし氏のキャラなので上げ足を取られないように注意することだろう。 総監督の津田大介氏にいたっては確信犯(誤用の方)なのだから、言い訳は全て詭弁に感じる。前に書いた「ああいえば上祐」ってやつだ。しかも、責任の所在は役所にある、事前に相談してOKをもらっているって言い分だ。 結局、誰も責任を取らずに他人に責任をなすりつける茶番劇が「あいちトリエンナーレ事件」の本質なのだ。だから、2019年の夏の話題になる。もっとも、マスコミは記者クラブ対象団体なので筆は重い。ペンは記者クラブより軽いってことだろう。 |
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。 |
第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。 |