旅の話(11) 後輩に旅を譲る
沢田亜矢子って女優さんを知っているだろうか。実は彼女が北見市でデビュー挨拶で「アザミの歌」を披露した時にアルバイトで照明係をしていたのが私だった。
田舎の町(失礼)で彼女を見て今で言うオーラを感じた。
実は数年前に北見市のススキノと言われる飲み屋街に「桃山」ってキャバレーがあって、学生が出入りするような価格設定では無かったのだけれど、馴染みのスナック(何回も出てますが当時の「水城」です)が満杯の時に紹介してもらって、待機組ことで数回出入りしていた。ここは現在のようなDVDが無かったので怪しい映像をフイルムで映写する場所だった。だがアナログなのでフイルムが外れて良く映写が止まった。そのたびに言い訳(謝罪)に登場したのが松山千春だった。「おまえなぁ!少し待てヤァ」と言う松山千春にオーラを感じたのも同時期だった。
当時23歳になっていた私は、もはや旅を語れる世代では無いのだろうなと漠然と感じていた。先に書いたように「自分調べの旅」は一区切りを付けたし、新しい旅に向かうには年齢的には遅いのではとも感じていた。
バイクでの「移動」にも限界を感じていたので、積極的な「旅」には距離を置いていた。
アパート生活になっていたので、先輩とか後輩とかとの付き合いも疎遠になり、先に書いたように「自分探しの旅」をしていた。
そんな生活をしていたアパートのドアある日叩かれた。
なんじゃねんと思って戸を開けると若い女の子が立っていた。
「私、同じ大学(当時は北見には大学は一つしか無かった)の後輩なんですが、旅の倶楽部を創りたくて、色々調べたら先輩の話を聞いたの訪ねて来ました」とのこと。
「お前、女として無防備過ぎないかぁ」と言って、取り合えず付近のAコープ(今は西町交差点のコンビニなっているかなぁ)の談話コーナーみたいな所で話をした。
彼女は旭川の出身で道東の「旅」の情報を交わせるクラブを創りたいと思ったので情報を集めているとのこと。
何故か弟子屈でのユースの運営の話も知っていた。
「自分たちで考えてやれよ。俺は関係ないからな」
と言ったら「そう言うと思ってました。だから、考え方を聞きたかったんです。あの時は何をすれば成功するってビジョンを持ってました?」と聞いてくる。
ツンデレ好き(個人の嗜好かぁ!)の私には一番苦手なタイプの女性(後輩)でした。私は心を許せる「気が置けない」人間関係が好きなんだけど鉄壁のバリアーがある感じでしたね。男女を問わず本音で話さないシトは苦手です。
で、「お前に不足してるのは人生経験だろうなぁ。旅は十人十色なんだって考えれば、t旅には統一的見解なんて無くて、自発的だって理解するには時間がかかりそうだな」とか言って置きました。
実は「俺は関係無いからな」って発想が寮を出てから生まれていたのは事実なんです。
卒業をまじかに控えた私の対応も「来年は北見市を出ていくシト」って対応だったんです。その多くが後輩も含めて何となくですが人間関係を築いてきた人たちに(男女を問わず)感じたのですが、いよいよ「卒業」だなぁと感じたのが後輩の問いかけでした。
引きずって行けば良いのか卒業で離れていけば良いのか、瀬戸際の感覚を感じたのです。今考えると19歳と24歳の5年の年齢の差って、大人に成って30歳と40歳の世代の違いより劇的に違うのだろうねぇ。
結局、数度の勉強会で話をしたのですが、そこは世代が違いました。先進事例を学んでトレースする発想なんですね。彼女に「だから、いやなんだ、おまえらの企画あるんかぁ」と言ったら「それが出来たら苦労は無いので勉強中なんです」と言われました。
「他人の旅を追うのは観光旅行だ。わずかな期間をここ北見で過ごすなら、自分の旅を作ってみろ。ひとりで。そしてだなぁ、半年に1回くらい情報交換会で集まれば良い。その時に情報交換会で話したくない旅を一つでも経験していれば立派な「旅人」だ。出かけろ、人に会え、理解しろ。それが旅だ、俺はそれが旅だと思っている。無難な旅行からは得られない体験が旅なんだ。」とたんかを切った。
ま、バトンは受け継がれないのは時代の流れかと思い、このサークルの話は終わります。
ただ、後輩の彼女から「旅って闘争なんですかぁ?」と聞かれて「人生は旅だし闘争なんだって卒業するまでに解ればいんじゃないか。出来るかな?」と言ったら「頑張ります」と言われて、ま、俺には関係ないと言いながら教育的指導かぁ(笑い)。その時に彼女を好きになったのだけど、やっぱりそれは私の旅の中では置き土産なんだろうなぁ。彼女がその後をどうしたかは知らないけど苦手な女の子でも話せるって経験を得たのは貴重だったかも。
旅の話(完結1) 出発(たびだち)の歌
変なジャニーズ系の曲と勘違いされないように貼っておきます。
https://www.youtube.com/watch?v=rWNbtM2jHc0
学生時代の3年目あたりで旅を「人生」と、旅は「自分探し」と妙に納得してたのですが、その発端が強烈だったのは「わたくし」女だったのは前に書きました。
もう一つ大恋愛事件があったのですが、これは「旅」とはあまり関係ないので省略です。
大学も最終学年になるといわゆる「就活」の旅が始まります。同級生の中には北見市の隣の端野町の農家の子が居たのですが「俺って、修学旅行で津軽海峡を越えた経験しか無いから本州の企業に就職するなんて怖いわ!」と常々言ってました。
私も同じようなもので、何処かで誰かが拾ってくれないかなぁ程度の意識で「就職の旅」を始めるわけです。
最初に言っておきますが、私の就活は「三度目の正直」だったんです。
たまたまゼミの教授が就職担当教授で学生に対して「君の性格からして、この企業はどうだ」と紹介してくれるのです。
その教授は前身は北炭の(あ、炭鉱です。今じゃ知らない企業名かなぁ)の電気設備を担当した経験があり「炭鉱町ってのは軍隊と同じで何もかも自前ってことで、町を作るので実学の手本みたいなもの」と講義で良く話されてました。
実は20年程前に亡くなったのですが、毎年の年賀状のやりとりだけはしていました。
突然に奥様からの電話で葬儀の会場を知らされて(札幌に引っ越してらっしゃったんですね)葬儀に参列させてただきました。
通夜のあとの個別の焼香を終えて奥様に「ご愁傷さまです。ご連絡、ありがとう御座いました。お世話になった〇〇です」と挨拶したら「あなたか〇〇さんなの。主人が年賀状を見るたびに、こいつには何かあったら連絡してやってくれ。俺が大学で教えた最高に変な奴だからと話していました。ご参列ありがとうございます」と言われました。
その場で絶句しました。
教授の「旅」に自分が「駅」として記憶されていたのですね。
先に「旅は自分創り」と割り切っていた自分が恥ずかしくなりました。実は「旅」は日々他人にも影響ていたんですね。
そんな経験から私は「自分のための旅は大学までだ、これからは他人の旅助けよう」思ったのですが、いかんせん社会人になって20年、男女七人夏物語で明石屋さんまが言う「遅いねやぁサダぁ」の経験でした。
たぶん、
続く。