旅と旅行の違いは(5)
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旅の話(完結2)出発(たびだち)の歌
話が逸れて申し訳ありません。
ま、当時の北見工業大学への募集案内は本州の企業多く、電気工学科で言えば「ほくでん枠数名」と「国鉄枠数名」以外は北海道内の企業は少なく就活=本州への旅立ちだったのです。
しかも国鉄(当時)がストライキ8日間(1975年)なんてのもあって、就活に出かけることすら北見の地では困難な状況でした。
就活って旅も当時はLCCも無くて国鉄での移動を迫られます。
実は就活って旅を最初に行ったのが「関東精機」で、列車を乗り継いで埼玉の本社に集合しました。
そこからマイクロバスで狭山市にある研修所に運ばれて1泊。
研修所の夕食を食べて明日は個人面接開始でした。
北見市から参加した田舎者(自分のことです)には、あれよあれよって展開だったのですが、夕食を終えて各自に配置された宿泊施設で問題が起きました。
「おらぁ、こったら田舎に住む気はねえだぁ(意訳)」って言いだした学生があらわれたのです。
全員が初対面でしたが(一部には同じ大学の同志メンバーも居たけど)この議論は熱を帯びました。賛同者も多くて「内定されてから考えれば良いのじゃない」って奴も居ました。全体的に全共闘世代ですから「代々木系」のニホイを感じたので私は静観に近かったです(意見は言いましたが徒党を組むって感じでは無かったのです。一匹狼が最善ってのが私の旅を通して得た人生訓でした)。
ただ、大学で勉強して頑張った先がここ狭山市の郊外の工場が終着駅かぁってのには共感する面があったのです。
前に書いた「わたくし」女の彼女が言っていた「25歳の心を解る大人に成れるよね」って言葉を唐突に思い出しました。今の俺って彼女に恥ずかしく無いかなぁと感じたのです。彼女が言っていたのは「妥協しろ」では無くて「戦え」って意味だったんだろうなぁと研修施設のベッドの中で思い出したのです。
当時の北見市にもハイテク産業が誘致されて、東京電波なんて企業も進出していてアパートの住民の半分はそこで務めている女性だったんです。
私は先の「わたくし」女の経験から、住居を接する女性とは拘わらない哲学を持っていましたが、工場労働って内容は漠然と聞いていました。
そこに自分も組み込まれるのかなってのが就職なのかなぁと思っていたので、何となく心情的に彼らの言い分は解りました。
でぇ!彼らは夜中にタクシー呼んで脱走したんです(笑い)。
翌朝の試験会場に出席者が少ないので情報を得て驚愕しました。
就職って自分を捨てる人生の旅なんだろうかと思いました。夜中のタクシーに誘ってくれないのは田舎者(私のことです)だったからなぁと思いました。議論したメンバーは私の知る限り一人も試験会場に居ませんでした。で、面接試験では「就職したら労働環境の改善をしたいと思います」で一発でアウト。
ただ、自腹で無い交通費を得たのは「儲け」だったなぁ。
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旅の話(完結3) 出発(たびだち)の歌
2番目の会社の話はイデオロギーも絡むのであまり話したくないのだけれど「マルマン」だった。
先の教授に「君は心情的に左派なんだから、我慢できるかなぁ」と言われて、とりあえず受験することにした。
幸運な事に(ま、経営者が韓国人ってこともあるのだけれど)連日の就活活動で体力を消耗していた私は2次面接前に風邪が発祥して東京の親戚の家にお世話になっていたのだが往診(当時は可能だった)を受けるハメに陥った。
医師の診断書を携えて面接試験に挑んだのだけれど、面接官も「体が弱いんですねぇ」って皮相的判断をしたみたいで不合格。この時に札幌に戻るために羽田から飛行機に乗った。実は航空機搭乗の初体験だった。
新千歳空港への帰り便で乗客は少なく、窓際の席で 上空から仙台や函館の夜景を見た。
なんせB-747のジャンボジェットなのだが、がら空き状態でスチワーデス(今のキャビンアテンダント)が「左の席から函館の夜景が見えますよ」とか右翼の席に行ったり、左翼の席に行ったりできるくらい空いていた。
「初めて飛行機に乗ったのですが、解りました?」と新千歳空港(当時は千歳空港)で降りる時に聞いたら「就職活動ですか? 最初に航空機にご搭乗いただいたのかなと思っていました。これからもJALを利用してご活躍ください」と言われました。就活中の若造にはありがたい言葉でした。
ちょっと涙が出ました。だって、「わたくし」女の彼女と同じセリフだったんですから。
以後、倒産してもなんでも私はJALのフアンなんですね。会社が出張の度にAirDoの航空券を手配するけど、あのスチワーデス(キャビンアテンダント)との一言が私の航空機の旅の体験の原点でした(関係無いけど)。
航空機は「旅」の手段なんだろうなぁと初体験ながら感じたのはこの時の経験からだった。
で、国鉄が8日間のストライキで全線が止まったのでもはや就職活動は閉鎖になった。とにかく移動が出来ないのだから就活の「旅」は制限される。そんな時に先に書いた教授から「仕事がキツイけど君なら頑張れるんじゃないかなぁ」と紹介されたのが当時は誰も知らない札幌の「北海道ビジネスオートメーション(HBA)」って会社だった。
当時大卒も入れようかって採用方針の転換があって北見工大にも案内が来ていた。教授も「未知の世界だけど、卒業生の先人になる開拓スピリットはどう」などと言われて就活試験を受けた。
ある意味で就活慣れしていたので、筆記試験では「この問題、設問が間違ってませんか」なんて試験官の女性に噛みついたのだけれど(入社後、彼女とは友達になった)それが良かったのか二次面接に進めた。
就職してから知ったのだが面接官は役員クラスだった。
「コンピュータは論理の世界ですが自信はありますか」って質問に「太陽と電気は人類の根源だと思って大学で電気工学を選びました。コンピュータも同じじゃないかと思っています」と答えてあっさり採用。
ま、自分で稼げ生活出来るのが「大人の旅」の第一歩。
新しい旅に舞台を移すことになった。
最後の旅(完結)は20年後に訪れた北見市との感想で完結します。
旅とは何かの最終章に「続く」
旅の話(完結) 出発(たびだち)の歌
いよいよ就職先も決まって北見市を離れることになったんだけど、一人気にしている女性が居た(また、それかい!)
家庭教師先に就職先も決まって挨拶に行って後任を紹介したら「ま、建築業界しか知らないからぶしつけかもしれないけど」と日本酒の一升瓶をもらった。
アパートに持って帰って飲んだら良いのだろうけど、学生には馴染みだった赤ちょうちんに一升瓶を携えて足が向かった。
当時、北見市役所の丘の下にあった「みちる」って焼き鳥屋だった。
実は20年くらいして網走市役所の仕事をした時に、あえて宿泊先を網走では無くて北見の黒部ホテルにして再訪問したのだけれど、店の名前は残っていたけど経営していた女性は居なかった。
国労組合とかと出会った焼き鳥屋で当時のおかみは70歳くらいかなぁ。一番すごいのは店のカウンターにラジカセを置いてピンカラ兄弟の「女の道」を終始流していた。なんやねんと思いながらテープが終わってほっとしていたらオートリバースかぁ、また曲が流れる(笑い)。
この店は記憶が定かでは無いのだけれど、北見駅で知り合った国労のメンバーから「良く行く店」って紹介されたのだろう。
「持ち込みだけど、これって良いかぁ。」って一升瓶を出したら「まず、私が飲んだら私の酒になるから配るのは私が許可する」と言われて最初の一杯を飲んでくれた。「また一人、北見から人材が減るかぁ」と言われて「そんなんじゃないですぅ」と言ったら「卒業生を送り出すのが仕事、こいつらも結局出ていく占領軍」と国労のメンバーを指して言っていた。
「おばちゃん、キツイでぇ」と言いながら顔見知りの国労の組合員からも1杯もらて良いかなあって事になった。「良く北見に5年も居たなぁ(実は留年してたので5年だった)と言われて転勤が無ければ一生札幌市民かもねと答えていた。
持ち込んだ一升瓶は瞬時(かなぁ)に消えて、おばちゃんの「私の持ってる酒出したる」って全員がおごり酒の状態。
締めで「お世話になりました」言ったら「世話されたのは私だ」と言われて「一期一会」って言葉をかみしめた。
その後、馴染みの山下通を酔っぱらって「木綿のハンカチーフ」を大声で唄いながらアパートまで放浪して、大学生にふさわしいのかどうか解らないけど私の「旅」は一区切りついた。
完
旅の話(付録) 学生と社会人の価値観
もう完結したので書くつもりは無かったのだけれど、大学生と社会人の価値観の違い(旅を含めて)を「付録」として付け加えておこうと思います。
良く「学生気分で居るんじゃぇよぉ」とか怒鳴っている上司が居ますけど、では彼が言ってる「学生気分」って自分で説明できるのかなぁ。
私は「旅」を通して社会人の旅と大学生の旅の違いをユースホステルでペアレントをしていていた時に感じました。
実は当時の川湯のユースホステルには若者ばかりでは無くて、中年層も結構来ました。大半はミーティングに参加しないのですが、「旅好き」な方も居て「ここのユースはどうなんだ」って参加してくれました。
その世代にとって私なんか若造のさらに下だったんでしょうね。
話をしている時に恋愛論に流れた時があって、大変失礼だったのだけれどご夫婦で参加いただいた方に話を振りました。
教えていただいたのは「人間には個人が持つ多様な価値観があってね。人生経験が少ないと許せる事も人生経験を重ねて社会人になると許せなくなる事は多いです。つまり、大人に成るってことは自分の価値観を絞り込むってこと。それは狭くなるって意味じゃ無くて逆に自分の信じる価値観が広くなるってこと。その勉強が出来るのが旅。こんな年寄りだけど、今日は皆さんから沢山教えてもらった。(意訳)」って話されました。
その後、何年も忘れていたのだけれど、ある意味正鵠だなぁと思った。
大学生ってある意味で「無条件解放」なんだけど、それを恋愛に拡張すると「無責任」かなぁ。
学生結婚をした数組を知っているけど、世相的には「あっちの左翼組」だったなぁ。
で、まぁ札幌で就職してムチャくちゃ職場に慣れるために頑張っていたのですが、北見市の彼女(今までの登場人物ではありません)から「雪まつりに行ってみたい」って葉書が舞い込んで「おいでよ」ってことで札幌で会いました。
雪まつりの当日なので何処のレストランも満杯で、本来予約しておくべきだったのでしょうが、仕事が忙しくてそれも出来なかったのです。大通りの雪まつりの会場を散策した後に場所が見つからず飲食もままならず当時のエイトビル(今はアルシュビルかぁ)の地下の吉野家で彼女と牛丼を食べました(相当のバカでしたね私は)。
その席で「私のこと大切に思っているの?」って聞かれて「もちろんだよ。何で聞くの」って返答したのだけれど吉野家の牛丼が致命傷でしたね。北見に戻った彼女からは連絡が途絶えました。
まだ学生気分で「大切に思っているの?」って意味が解らなかったのでしょうね。
社会人になると仕事ってのに一生懸命になる人(私かぁ)も居るのですね、「わたくし」女の彼女が言っていたのは「そんな余裕が無い人間になるな」ってことだったのかもしれません。残念ながら私は余裕のある旅が出来なかったのですね。当時は力いっぱい仕事して力いっぱいススキノで飲むって生活でした。北見の彼女はそんな私に失望したのでしょうね。その対応があれば人生の旅も方向が違ったのかもと思うと、出会いが旅なんでしょうね。
人間個人が価値観を構築するのが旅かもしれません、先に書いた老夫婦の「大学生の価値観と社会人の価値観」は違うのでしょうね。それを知るのが「旅」かもしれません。
ちなみに木枯し紋次郎を書かれた笹沢左保さんの作品の中に渡世人が「これを届けてくれ」って頼まれて「生きる意味」を感じる短編があります。旅って「使命」を持つのが大切なのでしょうね。それは自分が意識するかどうかは別にして、得るためには人と出会い、人と話、人と議論して、人と語る。それですね。
その一部が「恋愛」なのでしょうね。
私の「旅行記」は、とりあえず途中で中締めです。
その後に素晴らしい旅があったのですがそれは秘密です(笑い)。
私はある意味「わたくし」女の彼女に出会ったのが自分の人生の旅の出発点だったことが偶然とは言え幸運でした。「大人になれ!」なんて、女性から言われない限り男は理解できないでしょうね。
彼女は今どうしてるのか50年も前の話ですからうかがい知るすべもありません。ただ「わたくし」女の彼女がこの書き込みを見たら「なにやってるの、あのとき、わたくし言ったじゃん。女に好きと言わせる男は未熟な男なんだって」と言うだろうなぁ。
続編も書いてみました。テーマは違いますけど。