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リケジョの話(職場編)計算センター
本編は、リケジョの職場での付き合いの体験をかなり盛って小説風にしてあります。何処が職場の事実で、どこがフィクションかは詮索しないでください。そもそも話の始まりは昭和の時代で30年も前の話です。その後、平成に入ったあたりがメインです。リケジョの「頑固なリケジョの職場編」は「リケジョの話 小樽潮陵高校編」「リケジョの話 北見工業大学編」の3部作の最終章のリケジョの話(職場編)です。読み物としてご笑覧いただければと思います。
最初に就職した職場が業務委託計算センターと呼ばれている計算センターだった。昭和50年代の頃の話。理系の職場にはプログラマーやシステム・エンジニアのリケジョ社員が多くて、高校から大学と女性が少ない理系の男社会で過ごした身としては驚きだった。 当時は女性(母性)保護の労働基準法の環境で、リケジョの大半は定時勤務の多い北海道庁の仕事をする職場に配置され、私が配属された地方自治体の委託業務を行う職場はリケジョは少なかった。結局、また、男社会に組み込まれたのだった(笑い)。 大きな理由は当時の女性労働環境制度が女性を弱者と定義して制度化されていたので勤務時間が不規則な計算センターに馴染まなかった。地方自治体の委託計算業務を行っていると仕事に季節ごとにピークがある。私はピーク時には常に応援に駆り出されていたが、そのために市町村の現在の26部門業務のうちの5部門くらいの業務は市町村職員より詳しくなれた。 当時の委託計算センターの大卒男子採用の一期生だったので、職場では先輩が高卒や専門学校卒で年齢的に下なのに指揮命令されるのが気に入らなかったのだが、仕事を知らない素人だからなんだなぁと思いながら、仕事で追い抜いてやるって依頼される仕事は全部やっていた。 その過程でコンピュータ利用は手段で、業務の流れを知る事が重要なんだと解ったのでシステム設計に携わるのは割と早かった。2年目には業務フロー(JIS仕様の業務フローを書くのは大学で得意だった)を書きながら業務改善の提案書の作成(当時の職場では営業の役割だったんだけど)なんかも出来て、部門違いなんだけど営業からも職場を越えた「応援」を頼まれることがあった。 市町村の委託業務にはピークがあって、その1週間は徹夜の連続になる。当時の労基では女性の深夜残業は禁止だし、休日出勤も禁止だった。会社が北海道庁の仕事を受けている関係もあって法令順守が必須だった。でも、当時から仕事がガンガン増えていたのでリケジョの採用は必須だった。 ただ、悪い意味で無いが「戦力」になるのは男性社員の「好きなだけ働らかせることが出来る」だったのだろうなぁ。 春に住民税と固定資産税の縦覧で徹夜して仕事をして、秋も深まると市町村職員の年末調整で徹夜になる。それ以外に、3年目からは北海道の市町村の上下水道業務の担当主任になったので、12市町村の上下水道のシステムの改修の打ち合わせに出かけることも加わる。 ただ、業務のピーク時の応援部隊は続けていた。「あいつ、仕事の中身知っているから、応援頼めないかなぁ」なんてのを入社3年目なのに言われ、うれしかった。 ま、このリケジョの職場での労働環境の制限は昭和も60年代になると「特例」として撤廃(逆解除)されて、業界ではより積極的にリケジョを採用することになる。 実は当時の委託計算センターの職場にはキーパンチャー(ま、リケジョでは無いけど)って得意先の会社から持ち込まれた伝票をコンピュータデータ(当時は紙カード)に打ち込む部署もあって、これを元データにして請求書を発行するなんて民間企業の仕事も多かった。最初の職場の忘年会(毎年、定山渓のホテルを借り切って行っていた)の宴会に出たら、リケジョが大半で、キーパンチャーの事業部(総勢60名くらい)も参加していて入社半年の若造は肩身が狭かった。しかも、年下の女性が多いので、酔うと「あら、今年入社したんだぁ。でも、私は会社の先輩だから「お姉さま」と呼ばないとだめよ」って集団でイジッテ来る。『25歳にもなって、20歳の小娘を「お姉さま」と職場で呼べるか!』って悪酔いしてしまった。 |