日本学術会議の闇が白日の下に
敗戦後の制度
 ま「腐った」は言い過ぎだけど、そもそも法の精神を考えると戦争への反省の一部なんだろうなぁ。科学は戦争に加担してはいけない(これは、大いに矛盾してるんだけど、後述)って無理難題を先人は昭和23年ごろに制度化したんだなぁ。
 当時の世界の「戦争」と呼ぶかパワーバランスと呼ぶかは議論があるが、日本を封じ込めた(敗戦に追いやった)時代の世界の勢力図は現在と違う。
 あまり、広報されてないが、当初の日本統治の組織であるGHQは、その主要メンバがコミッテルンの影響が多きかった。つまりは、新しい日本を共産主義国家にするためにGHQに深く浸透したのが当時のコミッテルンだ。
 歴史を調べると解るが、終戦(敗戦)後の日本統治はGHQが担ったが、本来連合国の中でもアメリカに近い組織で、日本が玉音放送で「まいった」と言っても戦闘を続けたソ連が、そして、当時は国家では無かった(蒋介石が連合国だった)けれども中国のコミッテルン組織と共謀して新しい日本の統治にGHQへの参画を進めていた。その意味で、東西冷戦の下地はこの昭和23年(1947)頃の社会情勢だったのだ。
 70年も安泰だった「日本の政治バランス」に対して「戦争に加担する研究の禁止」宣言なんてのが、それ自身「学問の自由への」侵害だろう。
 そもそも「戦争の研究」に日本国憲法持ち出すまでもなく、これは国家の「生存権」の問題だ。
 「軍事」と「戦争」の用語の定義が必要だが、軍事は戦争の前段階。
 私の定義ででは「軍事」は戦略「戦争」は戦術。ま、用語の定義を再度行わないが、物事の考え方のスタンスは「方針>戦略>戦術」の段階で考える必要があるだろう。


学者が提言する世界
 なんかなぁ、戦後のどさくさは沢山あるけど日本学術会議法って「焼け跡闇市」程度の法律だろうなぁ。学術が戦争を支援したから、戦争に加担しない学術の確立って発想(先の「方針」)は解る。
 その実現に向けての「戦略」には、浮世離れしてるんだなぁ。
 「戦略」は何が有る、何が無い、だからどうして手に入れるってステージだ。
 そこで間違う事例が多いのだが、学者の常なのか「戦略」を間違ったのが「軍事の研究は行わない」って選択肢だ。本来、戦争抑止って場面では戦争を抑止する軍事って局面があって、ま、政治的には「抑止力」って表現になるのだが、学者は、と言うか日本学術会議は単細胞で(集団は個々の意見の集大成なので、単細胞になることが多い)戦争の抑止力たる「軍事」には着目しない。
 そもそも、「戦略」の段階では過去に「戦略爆撃機」としてB52がアメリカで位置付けられて、その後、ミサイルの配備に進んだように、現代社会は「軍事」を「抑止力」と考えている(ま、昭和で言うと40年代(1965年)かな)。
 その中で「研究」とは何かを語ってこなかったのが学者の世間知らずが逆に生き残りの「秘訣」だったのだろう。
 現実の世界を理解しないで「平和を祈る」って行為は憲法九条信仰の「お花畑」なのだが、学術会議も同じような世間知らずの「お花畑」になっている。何故、それが続いたかと言えば、政治はリアリズムなので、お花畑は「そんなの、関係ねぇ」と相手にしなかったから、役人の「前例主義」の中で順送りされていたからだろう。
 今回、意図的かどうかは別にして、菅(すが)内閣の「方針」として、国民が納得する政治を掲げているが、まさに、旧来の前例主義で踏襲されてきた疲弊した制度を行政府として」見直す対象になって、6名の任命拒否が生まれたのだろう。
まず、6名を明確にしておく。

決して、個人攻撃では無い。日本学術会議に任命する特別国家公務員として最適な活動をしているかの検証を個々人に行ってもらいたいための掲載だ。

公僕になる条件
 国民の税金が使われている一番額の大きな用途は「公務員」だろう。予算編成でも固定的経費に分類されて確保されている。つまり「公僕」(英語ではPublic servant)だ。
 日本学術会議のメンバーを任命することは「特別国家公務員」の任命である、一般的に特別国家公務員は国家公務員法の適用を受けないないなんて意見があるが、まてまて、その任命前の資格審査の話だ。そこの論点を「すりかえないでもらいたい((C)半沢直樹)。
 国家公務員法には以下の条文がある。
『国家公務員法第 102 条
職員は、政党又は政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法を以てするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除く外、人事院規則で定める政治的行為をしてはならない。 』
 人事院はこのHPで詳細を説明している。
 我々の常識(菅(すが)総理が著書「政治家の覚悟」で言う「国民の「当たり前」」)では、公僕(Public servant)が時の政府を批判するなんて「活動」は認められない。思想信条は自由だが「活動」は別だ。徒党を組んで所属する組織を倒すなんてのは70年代の学生が「日帝と戦かう」って言ってるくらい幼くてカワユイ論理だ、未熟故に感じる社会への「理由なき反抗」として、大人は認めてくれた。だが、それを、60歳も過ぎた「学者先生」が叫ぶかぁ。チャップリンは「最大の喜劇は悲劇である」と言ったが、ほんま、悲劇やわぁ。
 国民の「当たり前」が、この6人の任命拒否なんだなぁ。
 で、この問題を野党や花畑は「菅(すが)総理は政治家の説明責任を果たしていない」って「すりかえないでもらいたい((C)半沢直樹)
 組織の人事は結果だけだ。事由は非公開。新聞なんかに「人事異動欄」があるが、そこに事由書いてあるかぁ? 池井戸潤氏は半沢直樹シリーズで「銀行は人事で人を抑える組織」と批判してるが、その頂点が公務員だろう。その悪弊を正すのも「国民の当たり前」だ。組織が人事で成り立つ時代は終わっている。この20年で多くの企業が行き先を失った(JAL、東芝、東電、シャープ、日産自動車、三菱自動車)のは、組織の運営が人事至上主義だったから。
 平時の長ならそれで務まったのだろうけど、実は2000年から世界は平時では無くて「乱の世界」になっていたのだ。それを、前例継承の人事による統制で失敗した日本企業が(の、一部)が前述の企業だ。
 「説明責任」って、例えば彼女と別れる時(私には経験が無いが)「別れよう」「何故」「なんとなく」「説明責任果たしてよ」ってなるかぁぁ!
 しかも、官僚を呼びつけて「説明せよ」って言って、官僚の説明を理解できずに何を言っているのか解らん!」って叫ぶ原口一博氏みたいな、自分が欲しい答えを得られないと「説明責任を果たしてない」と言うからなぁ。
 説明責任と言うか、事由は「的確では無い」で十分だ。
 それを納得するかどうかは個々人の裁量だ。
 「説明責任」は十分果たされている「納得責任」を棚上げしてる自覚が無いシトが騒ぎをあおっている。
 70年代の学生運動にも居た。代々木系と民青系だ。詳しくは別項にするけど。

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2020/10/30
Mint