介護保険は「北海道」から始まった(7−9)
「介護保険の発祥」は北海道(7)
 会議の議長が「調査結果を踏まえて今後の方向を議論しましょう」と会議の続行を促したのだが、ある医療機関から「この仕組みを使って「院内整備」を考えたいって現場から要望があった。病院は入院患者の「介護に係る手間の関り具合」を経験則で把握して、婦長が病室(ベッド)配置計画をつくっているのだが「この調査結果」を踏まえて、「ナースステーションに近い部屋」には介護度が高い患者のベッドを配置して効率的な病院運営ができる気がする」と意見を述べた。
 実は私は当時30代後半だったのだが「個人情報保護」の方針からデータは私しか扱えない仕組みにしていた。そのために「オブザーバの看護婦長(当時の名称)」さんから「なんだ、この仕組みすごい! 現場で生かせる仕組みじゃないか」と電話でのアクセスが多かった。 その内容は「北海道庁の調査対象は当病院では200名なんだけど、不平等無く全入院患者のアセスメントをお願いできませんか」ってことだった。
「山崎史郎さん」に電話して「そんな仕事受けても良いですかねぇ」と聞いたら「いんじゃない「民間が既にやっている」に役所は弱いからなぁ。MDSの分析ソフトは全て「フリーソフト」だから適当な原価で仕事にして良いと思う」とのことだった。  実は私は「個人情報」が流出したら「マズイ」とかなり情報対策には気を使っていた。その事が事務方の看護婦さんもオブザーバーの看護婦さんにも「感覚として」伝わっていて「あのシトから情報を得ないと「本当の事は解らない」って」看護婦長さんが複数の医療機関に居た。
 あるときに「病院内で「研究会」を立ち上げる話を「院長」と交渉して「研究費」を500万円付けてもらったんだけど「研究会の初回に講演いただけません?」」って話が舞い込んだ。「ま、いいですけど、何名ほどの研究会なんですか?」「病棟トップの8名と私の9名なんです。病院に、ご足労願うのが心苦しいので市内で料亭でザックバランにやりたいのですが。院長からは「情報収集がメインだぞ」と言われていますので」
で、了解して「会議室」に行ったら「料亭」だった。意見交換の内容は「多岐に渡る」のだけれど「このMDS方式は今の病院(老人病院)の効率化に役立つと直観的に思いますけど、新しい「医療分野」が現在お分離されて「介護保険制度」ってできるんじゃないかと感じているんですよね」  「それ、私が「保証」する立場に無いですけど、失礼ですけど「高齢化社会」を老人病院で乗り切るのは無理があるでしょうね。「介護」って医療か福祉かは別にして「担う仕組み」を作れるかってのが今回の調査で、みなさんのご協力に感謝しています」
 「それでは今回の教えてもらった事を勉強して研究会を勧めましょう」との会議(懇親会)が終わって「先生、ありがとうです」と封筒を渡された厚さから『ビールかな』と思ったら現金で10万円が入っていた。
「これ、受け取れないです。調査事業の広報活動には別途報酬は受け取られないですから」
「院長からは「渡しておけ」って言われてるんです」
「うーん、困ったなぁ、じゃあ、ここの支払いに使います。不足だろうから残りを負担してください」
「難しいかなぁ」
「介護保険制度」に当時の北海道の老人病院は「気が付いていた」のでしょうね。
「ここの支払いの「領収書」を私の名前で作ってください」
アブねぇ世界の入り口だったなぁ

「介護保険制度の発祥」は北海道(8)
結局その医療機関の「研究費」は「MDS方式を自社の医療機関の医療費請求を計算しているオフィス・コンピューターにプログラムを組み込む」って事で「落ち着いた」。実証実験で分析した入院患者のアセスメント結果が事務局の結果と若干合致しないことも判明した。
原因は該当医療機関ではCOBOL原語でシステムを構築しており当時の数値の扱いが倍精度宣言しないと個々のデータは8桁で加減乗除されていた。
ま「倍精度計算」なんてのを教える義務はないと私は「不思議ですねぇ」と答えておいた。先の「10万円」を受け取っていたなら別だったろうけど、私は「技術力の無い技術者が企業に入り込み「技術者」として勤務出来ているのが「腹立たしかったので」黙殺した。
 ちょっと話題が逸れるが、当時も今も「コンピューの
1)システム構築
2)システム運用
は「別物」なのだ。
 昭和の時代には同じ機能で「計算センター」って仕組みだった。
 私もその一端に事業に就職することになるのがけれど、その後、オフィス・コンピューターって分野が確立して「システム開発は専門業者に。運用は社内で」て仕組みが生まれた。
 この「運用は社内で」に対して「コンピューター専門学校」が「商機」と見て人員を送り込んだので「ちょとだけプログラムの勉強をした」程度の要員が各会社のオフィス部門に採用されていた。
 システムの運用なんて「ルーティンで暇な仕事」なのでプログラミングに手を伸ばしてくる。だが「専門の経験を有しない「学校で学んだだけ」では業務分析もできず、システム構築は無理で「単体のプログラムを1本作る程度」だった。1
 これが社内システムの更新時に問題になる。当初構築したシステムのプログラム本数が更新時の5年後には倍の本数になっていて「これも、新システムに乗せて欲しい」と言い張る。当時の「技術」では「データをCSVフィルにして「現場に渡せばよい」のだが、前任者に頼まれた業務データを大型汎用機で「紙に打ち出す」ってプログラムが「社内構築」で作られていた。しかも人事異動で着任した「後任」は「これなんで、毎月届くんだ」状態だった。同じ構造だったなぁ。

「介護保険制度の発祥」は北海道(9)
 当時の「NDS研究会」にオウザーバーとして現場の婦長さんと部下のメンバーを参加させたのは「結果として」良い方向(厚生省の思惑)になったと思う。
 まず「看護婦(当時の名称)の会報誌に「北海道の挑戦」として知り合いの「婦長」が投稿した記事が掲載された。
前に院長から「研究費」を付けてもらった「婦長」だ。
「東京での説明会で講演して欲しいと言われてるのだけど、何処まで話して良いですか?」と電話が来た。
「私に聞かれたもなぁ。ただし「分析結果の用紙は配ってはダメですよ」それと「山崎史郎」さんに相談したら良いと思います。「〇〇さんに相談したら」事前に連絡しておいたほうが良いとサジェスチョンをもらったので「失礼は上々承知ですが、ご相談しました」と言うと良いと思います」
その後、彼女は直接電話して、本来「自分の上司(院長)が務める「委員会」のオブザーバー参加者なのに「何を言ってよいのか」を相談したようだった。
翌日に電話が来て「ひどく緊張して電話したのですが「現場で感じた「感覚」を話してください。資料は委員会のオブザーバは「閲覧のみ」ですから配布はできません。それを守っていただければ、ご活躍下さい」と言われたとのこと。
 2回目の「アセスメント」に向けて準備が忙しい時期だった。
 2回目は初回と違い「介護度の変化」を分析する実証実験だった。

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2023/01/16
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