堀北海道知事の人間性が引退会見では遅すぎる
何回も同じ事を聞くな「馬鹿!」
会見での発言の一部を拡大したくないが、ま、あの発言は質問した記者の不勉強以外の何物では無い。質問した記者名と会社名を聞きたいのだがマスコミってのは小泉首相と同じように「論議のすりかえ」が上手だ。昔、田中角栄首相が移動中に新聞記者に囲まれて、「ロッキード事件への関与は無いのですか」と聞いた記者に対して「何処の記者だ!」と脅されて「北海道新聞です」って答えた場面がNHKでも放送されたのだが、これって正しい報道姿勢だと思う。
今の報道はまったく、どうしようも無いくらい自分本位なのだ。久米宏の功罪のなかの罪の部分なのだが、情報を自己都合で編集している。その最たるものが「堀知事は会見で馬鹿と言った」って報道に現れてるのだ。「馬鹿な質問した者は馬鹿なのだ」って2チャンネルでは当然の論理が伝わっていない。馬鹿と呼ばれた記者をインタビューしてこその「報道」では無いのか。
IT知らずとIT馬鹿が多い政治の世界
もう疲れてしまうので繰り返しの話しはしたく無いのだが、前森首相がITを「イット」と読んだ話しとか、所信表明演説で「アイピィーブイロク」と叫んだとかどうしようも無い。細川首相がケネディを崇拝していたのは周知の事だが、ケネディはメディアに対する感性に長けていた、当時のメディアと言えばテレビだったのだ。それを追っただけではメディアの本質は解らない。ケネディはメディアに長けていたのだ、テレビに長けていたと勘違いしてはいけない。まさに、前に書いた佐藤栄作引退の記者会見の時代にテレビの役割は無限大から一定の範囲に絞られたのだ。マクルーハンは「メディア論」で様々なメディアを評論しているが、僕はテレビはラジオ程メディア性を持っていないと思っている。
マクルーハンはラジオを「民族の太鼓」と称したが、これってすごく本質を突いていると思う。我々北海道に住む人間には旧ソ連の放送はラジオ(AM)のダイヤルを回せば必ず聞こえてきた。同じように北朝鮮の放送も聞こえてくる。この放送で話されてる言葉が解らない。言葉が解らないのに音が聞こえてくるって事象はまさに「民族の太鼓」なのだ。そこで何が話されてるか解らないが、自民族にとって「危険な臭いを感じる」それが音声しか伝えないラジオの特性なのだ。それを的確にマクルーハンは指摘している。
僕がかねがね批判的なのか「アフリカにラジオを送ろう」って市民運動。かの地でも言語は多彩で電波による「民族の太鼓」を聞いた人々は「戦闘準備になると思う」それは、日本では北朝鮮のラジオ番組を聞いている人が少ないから解らないが、基本的に言葉の解らない近隣諸国の番組は「侵略の企図」に聞こえるのだ。
異論がある人はとりあえずAMラジオで北朝鮮の放送を聞くと体感出来ると思う。言葉しか伝えないラジオは言葉が解らないと非常に脅威なのだ。
で、今の政治家はほとんど「ケネディなんかは蚊帳の外、地盤・看板・鞄が政治家のバックボーン」って思っていると思う。とてもメディアを意識した政治家は居ない。自らのホームページをたち上げている政治家は多いが、まったく「情報」を解ってない者が多い。単なる「流行のバスに乗り遅れるな」的なとりまき連中の上げたホームページでしか無い。
しかし、市民は見ている。北海道庁のホームページで広報される堀知事は3ヶ月遅れの広報誌が出てからの情報だったのだ。インタネと広報誌の違いは「双方向」にあるのだが、これを生かした自身のITへの発言がほとんど無かった。
もっと言わせてもらうと札幌市の桂市長はとんでも無いくらい納税者である市民に顔を向けなかった。同じ姿勢を堀知事に感じる。彼らは役場出身者なのだ。だから「市民」に目が向かないのだ、「役場の、役場による、役場のための行政」に終始したのだ。たから市民が監視しているITの世界に登場しない。どちらかと言うと無関心以前に思考が無いのだ。役場運営使命と選挙民の預託を勘違いした結果、市民はNoだったのだ
情報を使えない人間への教育
大学で「情報処理」を教えていてつくづく感じることがある。文部科学省の参考資料ではどう考えても週1コマ(90分)では教えられない程内容が濃密なのだ。たぶん文部科学省に「情報」が解ってる人間が居なくて、どこかの専門学校のカリキュラムからつまみぐいしているのだろう。結局「パソコン操作」に終始してしまう。これって、僕の本意では無いのだ、大学生にもなったのだから「情報処理」って一生のノウハウをじっくり勉強してもらいたいのだ。その意識の有る学生も居るが集団教育のジレンマで学生集団の平均値に合わせざるを得ないのがなんとも歯がゆい。
実は「情報」てのはコンピュータと直結する昨今の風潮は全然違うのだ。「情報」とは明治の時代に森鴎外がinfomationを訳し造作した言葉なのだが、その感性は漢字に現れているように「情けに報いる」なのだ。明治の文豪達の凄い所は自ら文化を担ってるって自負だろう。ちなみに福沢諭吉がbankを「銀行」と訳した。それまでbankって概念は日本には無かったから造語したのだ。坂本龍馬が「カンパニー」を訳せなかったのと比べて明治の文壇って言葉作りに長けていたのだなぁと思う。
話しが逸れたが「情報」ってものを解らないとこれからの時代は乗り切れない。逆に言うと情報を理解している人間がこれからの時代を作っていくのだ。そのあたりの話しは
次回に書こうと思うが現在の社会はまさに「情報処理」をマスターした人々が「勝ち組」になってるのだ。
だから、政治の世界でも「情報処理」をマスターしなくては選挙に勝てない。別に選挙に勝つ事が政治家の目的だとは思わないが、情報を制する者が政治を制するって事実を過去のアメリカのケネディ大統領に見るとすれば、今の日本の政治家はあまりにも情報を軽視し過ぎている。
不幸な事に我々道民は引退会見で初めて堀知事の人となりに接したのだ。8年間知事をやっていて、道民に自分を見せた最初で最後の瞬間が引退表明ってのは道民にとって不幸ではないだろうか。自ら選んだ知事がまったく情報を発信しない。そのフラストレーションが道民に「閉塞感」を醸したのだ、だから、情報処理は大切なのだ。それは既存の政治家や官僚がいちばん不得手な部分なのだ。だから、選挙結果を既存の政党が読めないのだって奇想天外選挙結果が出る。でも、僕に言わせるとそれは必然なのだ。自民党がいかに弱体化してしまったか、それを知らなくては駄目だ。
堀知事は「いまさら市民派では出れない」って不幸を自らに呼び込んだのだ。地方自治は中央とのしがらみが無い人間を選んでいるって現実を把握すれば、これからの政治は地方と中央の維新だと気が付く。それを率先するには中央から地方への転籍なんだよね>鳩山由紀夫氏。