終戦のローレライ>終章の是非は論議のあるところ

前回はベタ誉めだったのだが
 「終戦のローレライ」ほどの長編は、いっきに徹夜して読むってのは全体のあらすじを追う斜め読みに終始する。しかも、全体の流れの中で結論まで読んだら一休み。結局、最初は第5章まで読み終えて感想をアップした。
 再度、終戦のローレライを時間をかけてジックリ読んでみると、結構ジャリジャリと心を逆なでする部分もあったりして、気にかかる個所が目に付いたりする。特に「終章」の部分は時代が羅列されているだけで、丸暗記した歴史年表を読むように味気なく、作者の歴史観の無さと戦争の時代と終戦後、そして未来へと繋がる哲学が感じられない。
戦後をひと括りにしているが、それぞれの時代を生きた人々が居て、その積み重ねで現在があるのであって、皮相的に追って積み重ねてもとても時代が積み上がっては来ない。
 受験科目なので歴史は年号を丸暗記する授業になってしまった教育の欠陥が、時代を描くのに年表的手法しかとれない世代を生んでしまったのかと驚いた。
 今回は、映画「終戦のローレライ」には触れない。どうもインタネで検索する限りは出来の良い映画との評価は少ない。ガンダムと宇宙戦艦ヤマトと踊る大捜査線を合わせて10で割ったようなマンガだって評価が多いようだ。個々の役者で特に役所氏の演技は光るようだが、全体の演出とCGの使い方が前述の評価になってしまっているようだ。
 「ローレライ」のフジテレビ721の特集を見るだけでは映画の内容は分からないのだが、最近、一緒に映画を見に行ってくれる人が居ない身としては、とても一人で映画を見るのが辛い。その内容が駄作でも「誰々と見に行った映画」ってことで救われる部分があるが、それが無くなるので劇場を出るときに「金返せ!」と叫びたくなる衝動を押さえられない気がするのだ。1800円も払って駄作(と自分が感じる映画)を見せられた日にゃぁ、あーった、そうなりますですよ。

終章は「弥生」に少し救われる
 「終戦のローレライ」の「終章」の出来を中心に話したいと思う。第1章から5章までは、それなりに文章が積み重ねられている。もっとも、首謀者である浅倉大佐とウェーク島の顛末は物語の刺し身のツマとしても位置づけが不明確だし、「伊507号」を降りた人間をフォローしたいのなら、小松だけを描いても描き切れないだろう。
 小説を読むときに自分なりの主人公の容姿を想像して読み進めるのだが、パウラの容姿は「17歳」を唄っていたころの南沙織がイメージされた。征人(ゆきと)はデビュー当時の中井貴一かな。絹見(まさみ)艦長は影のある人間として原作より高齢だが竜雷太(ちょっと無理があるかなぁ)。高須は知的で冷たい高嶋兄弟の兄貴。
で、僕が一番感動した田口は織田祐二。ま、小説を読む上での読者の勝手なイメージ作りだから、各自は各様に終戦のローレライのイメージを描けば良いのだが、映画だとそうは行かない。おっと、映画「ローレライ」の話には入って行かない。
 で、「終章」を語る前に、単なる時代の変遷として登場してくるパウラの孫としての弥生だが、この描き方にも不満がある。僕のイメージでは弥生は特別出演でゴルフの宮里藍でどうだろう。モーニング娘の藤本美貴も良いかなと思っているのだけれど(苦笑)。
 で、インタネで映画「ローレライ」(書かないって言ったのにぃ)のパウラを演じた香椎由宇(かしい・ゆう)を見た時には自分のイメージと近かったので少し安心した。
 最悪の「終章」であるが弥生に救われるのは、パウラの能力(超能力)は秘密兵器「ローレライ」として現在で言う潜水艦のソナーの機能では無く、人類の苦しみのバロメータであり、苦しみが何処で何によって起こっているかを地球規模で知ることができる能力なのだって点。パウラの能力を兵器とすることは封印されても平和に貢献する能力としてパウラの能力が弥生に受け継がれているらしいと思わせる布石が、かろうじて「終章」に相応しい記述なはずだ。

何故、終戦のローレライの終章を嫌うか
 先に書いたように「歴史観の欠如」の一点に絞られる。今の若い世代が太平洋戦争時代を勉強しない(興味を示さない)のも怒りを感じるが、現在の時代を否定的に捉え、大人が作った時代はいいかげんで汚れてると断定する生き方にも怒りを感じるのだ。
 それは、ここのコーナーで何回も書いているがジュリアナ東京を作ったのは、あんたと違う大人かもしれないが、そこでパンツ出して踊っているのはあんたそのものなんだって怒りだ(解りにくい書き方だなぁ)。
自分に都合の悪いことは批判し、都合の良いことは利用する。援助交際に代表される「私は悪くない。大人が悪い」って、いいとこだけ取って生きていく人生観そのものを嫌悪するのだ。
 そして「終戦のローレライ」の「終章」はパウラを借りて太平洋戦争の時代を活き活きと描き、戦争が終わってから現在までの日本を退廃的に描き、その先に弥生が担う新しい未来を描こうとしてる。これは本末転倒の歴史観だろう。
 太平洋戦争の時の戦友に生かされ、戦死した戦友に託された未来を自分は実現しているのだろうかと悩む征人(いくと)。それを傍らで見守るパウラ(折笠温子)を通して、戦後の現代が失敗作だなんて描き方はナンセンスだ。
 死んだ人間に託された未来は、とにかく生きることで恩返しすれば良い。戦友が望んだ時代が5年や10年や50年で実現するはずもない。人類は常に発展途上で理想を追い、その実現に努力する姿勢が人類であり、実現させる努力が生きていることなのだ。
それが、僕の歴史観だ。だから、現在はある意味、あるががまに受入れ、否定するものでは無く未来につながるステップと考える。
 終戦のローレライの「終章」は腐敗しきった現在を破壊し、新たな平和な未来を構築するみたいな、古くは「連合赤軍的な」新しくは「オウム真理教的な」歴史観が読み取れる。それは、違うぞ。先の太平洋戦争で亡くなった人々は決して戦争の無い時代を未来に託したのでは無い。
戦争の無い時代が望ましいが、一番我々が受け留めなくてはならないメッセージは「終戦のローレライ」にも書かれている「なりたい人間になれる時代」ってことだ。
それを平和とか自由とか呼んでも良いが、基本は、そのような時代背景を創ることを我々は先の戦争の時代を生きて理不尽に亡くなった人々に託されていると考える歴史観を何故、終戦のローレライの終章に持ってこれなかったのか。それが、嫌うと言うより、折角5章まで書いてきて、なんで描けないのかと思ってしまう。「なりたい人間になれよ」って台詞は本編で何回も繰り返し記述されてるのだから。

なりたい人間になれる時代を創る
 終戦のローレライの主張は「なりたい人間になれる時代」を描くことで高い評価を得られただろう。
 もやは死語だが「戦後強くなったものは、女とストッキング」ってフレーズがある。女性の社会進出が進んだのは野坂昭如さんに怒られる用語だが「戦後」の特徴だ。
 でも、これって人類の半分を占める女性の「なりたい人間になれる」ってことだったのではないのか。橋田ファミリーが演じる「渡る世間は鬼ばかり」がドラマとして笑えるのは少なくとも現代の日本では女性が男性と同じように「なりたい人間になれる」ことが可能になったからこそ、笑いの世界に位置づけられたのではないのか。
 少なくとも大正時代にテレビが有ったとして、髪結いを生業にしている「おしん」が仕事の合間に「渡る世間は鬼ばかり」を見て息抜きをするってことは想像できない。自分の生活を鏡をみるように伝えられても、それは娯楽たりえないのだ。
 終戦のローレライに書かれたように、太平洋戦争終了からの日本を否定的に見て、その先に弥生が活躍するすばらしい未来があるなんてことは無い。肯定的に見て、伸ばすところを伸ばす、そこに未来が見えてくるのだ。
 どうも、その部分の描き方がいまいち伝わってこない。終戦のローレライは何故第5章で辞めなかったのか。辞めないなら辞めない事由を読者に説明できるだけの終章にしてもらいたかった。少なくとも僕は2回目に全編を呼んで、終章で「なんだ、活劇か。解ってないんだなぁ」と失望したのだから。
 出来れば、弥生をもう少し大人にして、弥生の考える「なりたい人間」が描かれて、それを見守るパウラ(折笠温子)って場面まで描いて、未来志向で終わってもらいたかった。ま、この時のパウラ(折笠温子)の役は田中裕子が適任だな。
 「なりたい人間になれる」時代に生きて、なりたい人間が目標設定されない子ども達に苛立つパウラ。なんで、離婚調停の話でゴタゴタしなければならないのだ。そして両親に理解されない高貴な理想を持った孫の弥生。そんな描き方が出来て、亡くなった征人(ゆきと)が幸せを手に入れるたびに亡くなった戦友に申し訳ないと思う心。それを弥生が未来で恩返ししてくれそうな予感。そんな終章が未来志向だと思うのだが。
 ちなみに、この終章程度なら僕が学生時代に書いたよって、以下のリンクを貼っておくが、見ないほうが懸命かもしれない。
潮風のメロディ

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2005.03.23 Mint