教育と人材、そして安全管理
教育を重視する軍隊
教育とは何かと前提を考えてみると、様々な目的が複合的に上げられるのだろうが、ここでは「知識を有する人間に育てること」と定義しておく。実は、あとから否定しようと思っているのだが。
最も「教育」を重視するのは軍隊だろう。戦時と平時の中で常に戦時に向けて教育する必要がある。加えて昔の戦争には人海戦術みたいな消耗戦があり、減った分は補充を行い、一般レベルの兵隊にまで育てる必要がある。このために、教育が必要であり、教育に時間が割ける体制が最初から備わった組織が軍隊だろう。ここではあまり「即戦力」みたいな人材ハンティングは無い。アメリカの州兵のような予備役軍人が有事の即戦力とは言えるが。
軍隊で何故教育が重視されるかと言うと、近代戦の戦闘場面では個々人の能力がいくら高くても通用せず、集団としての能力の高さを求められるからだ。これが鉄砲以前の時代なら剣に秀でた武将数人で戦争に勝つことも可能であった。相手の武将と一騎打ちで破れば良かったのだから。これは、動物の群のボス支配の構造とほとんど同じであった。
しかし、兵器、特に鉄砲に代表される飛び道具(近代的に言うならアウト・レンジ戦法)が使われると一変する。人間(兵士)はいかに単位時間内に弾を発射するかが求められる。また、単発では無く集団で一斉に発砲することも求められる。武将では無く銃のオペレータが、大量に求められる戦争に変化したのだ。
集団が一挙手一投足の乱れも無く兵器をオペレーションしてこそ勝利に結びつく。これが近代の戦争に求められた人材(兵士)であり。そのための教育と言うか訓練を近代部隊は必要とした。単にオペレータの育成と割り切れば良いのだが、精神主義を前面に押し出し、武士の心得のような勘違いまで起こして、戦前の日本の軍隊における教育は非効率で閉鎖的な軍人社会を作ったのは周知の事実である。
兵器を操作する教育と軍人精神を叩き込む教育とアブ蜂取らずだったのだ。そのため教育へのコスト意識が生まれず、パイロットの育成に掛かる費用と時間の積が意識されず、地上戦でパイロットを失う作戦が散見されたのだ。人の生命に上下は無いが、兵器としてのパイロットは歩兵の何倍もコストが高い兵器なのだ。
人間の頭の構造、記憶の仕組み
先に述べたように教育の目的は「知識を有する人間に育てること」と規定すると、知識を効率的に得られる教育方法とは何かと考える必要がある。
人間の記憶の仕組みは最近10年間程の研究で明らかになってきた。この人間の記憶の仕組みが教育の場で生かされないのがなんとも不思議でしょうがないのだが。何処かで前に書いたけれども再掲しておく。
1.記憶
1)宣誓的記憶 事実の記憶
(1)意味記憶
(2)エピソード記憶(体験記憶)
2)手順記憶 自転車に乗れるとか、体が憶える記憶
このような分類になる。
これが総合的に記憶されて人間は「知識を有する人間に育つ」と考えるのが妥当だ。
「人間、一生学習だ」って言葉の中には上記の「記憶」にも様々な分類があることを示唆している。年数を重ね経験を積まなければ取得できないものもある。また、職人芸なんて世界は「手順記憶」を体に覚え込ませる訓練と対になっている。
これらの記憶が時間と共に積み重なることが知識の習得であり、この知識を元に行動に結びつく知恵を出すのが人間が何故学ぶかの根元だと思う。
現在の一般に言われる学業教育は、実は上記の「(1)意味記憶」の世界中心で動いているのだ。知識習得度合いをペーパーテストで計るのも、いや、計れるのは「意味記憶」だけだ。その、極端に言えば電子辞書を引けば解ることに毎日毎日、大卒であれば16年以上も時間を費やしている。なんか、馬鹿馬鹿しくないか?
そして、大半の時間を「意味記憶」に裂くのではなく、バランス良く人間の知識習得を助ける教育制度を考える必要があるのではないか。そこで始めて「学力低下」とか「生きる力を育む」とか「よとり教育」とかの解決策が見えてくるのではないか。
知識偏重教育がもたらす社会
「学力低下」の事を書いたときに述べたが、学力低下を先の「意味記憶」偏重ペーパ試験で計るのは難しく、せいぜい「成績低下」の傾向が読めるだろうが、総合的な知識の習得状況である「学力」は読めない。そもそも文部科学省は「学力」をどのように定義しているのか。「ゆとり教育は失敗だった」なんて大臣が中学生に頭を下げて済む問題では無い。誰かが腹を切るくらいの大問題なのだから。
落語には物知りの隠居が出てくるが、意味記憶偏重の学業教育はこの物知り隠居を育てているだけだ。そして、良く知ってるが経験不足なので最適な決断が出来ない若者が増えている。
特に最近の学生を見ているとインタネで検索すれば物事が解る誤解をしている例が多いのだ。別なコーナで検索エンジンからの訪問キーワードを分析してるが、何故か長期休みの最後のほうで「六番目の小夜子の感想文」とか「いちご同盟の感想文」ってキーワードでヒットしてくる事が多い。このあたりだと中学生だろうか。インタネで感想文を入手して宿題を提出するのだろうか。そもそも「本を読む」ってことが目的で感想文を書くことは付随的なことなのだが、本末転倒もはなはだしい。そのようなデシジンを子供達がしている現状を教育の現場の教師たちはどう考えているのか。
頼っていた最後の砦である「意味記憶」も風前の灯火なのだ。ちゃくちゃくと本末転倒に浸食されている。いや、表現を変えると「意味記憶偏重教育」では、そんな子供しか育たないってことだ。たまたた、今まではインタネが無かったのでので救われていたが、今の時代は意味記憶教育だけでは人が育たないITも含めた社会環境にあるのだ。
自分で判断できない子供達が増えている。それがフリータやニートに結びついている。その子供達を生み出したのは現在の教育制度の欠陥が表面化しているからだ。その観点を持たないと今の社会の閉塞感は解消されない。
表面的な話だが、オーバースピードでカーブに突っ込んだ運転士や日勤教育と称してイジメすることで正常な運転士のエリート意識をくすぐったり、「なんでボーリング大会なんだ!」と会見場でJR西日本の経営層を罵倒する新聞記者。僕から言わせれば全て「やれやれな奴」である。心が無いのだ、骨髄反射行動しか出来ないのだ。心が無いってのは「自分で考えられない」ってことで、先の落語の隠居より悪いのは「人間を知らない」って人間として最悪の欠陥を持っていることになる。
安全管理とは自ら考えないと出来ない
真逆な言い方になるが、危機管理は危機管理マニュアルで整備される。安全管理は、その目的である安心まで含めて自ら考えながら決めて行かなければ構築出来ない。マニュアルを守っていれば安全になる訳ではない。それは、先に書いた人間が部品になってしまっているのだ。マニュアルに無い場面で状況判断する力が人間にあるので、全ての機械が自動化されないし、人間が操作する設計で機械は安全に使える。
与えられた条件のみ守れば良いのではなく、常に何か安全を脅かすものは無いか注意をはらってこその安全管理だ。だから、こじつけになるが今回のJR西日本の福知山線の脱線事故は、条件を守る(定時運行)ことに意識が行くが、この先のカーブは
時速70kmまで減速が必要なことへの意識が弱く、時速120km(秒速33m)で一瞬の手順の遅れ(5秒遅れると165mも進む)でオーバースピードに陥ったのかもしれない。
ちなみに、5kmを平均時速120kmで走った場合151秒、平均持続100kmで走った場合185秒。計算の前提がおかしいがその差は34秒、当時の遅れ90秒全部を取り戻すことは出来ない。
安全と定時運行を天秤にかける筋のものでは無い。天秤に掛けてしまう意識はどこかに「自ら考える」ことが放棄されていて、与えられたことのみを遵守する姿勢が感じられる。脱線列車を運転していた運転士だけでは無い「日常茶飯事」と言い切った動労組合幹部は自らも安全と定時運行を天秤にかけたことで同罪なのだ。
同じ事が、記者会見場での記者にも言えて、「あんたら、みんなクビだぁ」って叫ぶのは状況を「自ら考える」ことの放棄だ。こんな社会に日本が陥ったのは....
大局的な原因を教育に求めるのは間違いでは無いだろう。