見識が問われる社会になりつつある

ジャーナリズム攻撃に反撃を受ける
 もう現役を去って久しい元新聞社社員(新聞記者と一概に呼べないほど、様々な仕事に携わってきたらしい)の方と話す機会があった。もちろん、ここのボードは見ているので「新聞社批判」随時出てくる会話だったのだが。
 「別に新聞社だけ批判されてもなぁ。日本社会全体があら探しの批判合戦が仕事のような風潮になってるし、悪い者を悪いと批判すると自分が救われるような日本人の好きな相対的価値観が悪い意味で前面に出てる時代背景じゃないの」と受け流す。
 そもそも報道が批判されるのは情報を扱っている矢面に居るからで、表面立ってないが他の会社も大同小異では無いかと言う。そして「今のジャーナリズムに欠けているのは何か解るか?」と反撃してくる。
彼の話を要約すると以下のようになる。
 昔は新聞やテレビも含めて「偏向報道」って批判が特に与党から多かった。本来報道は公平であるべきとの考えがいつの間にか浸透してしまった。しかし、報道の自由は公平であるべきとして制限されるものでは無い。まして電波を使う許認可がからむ放送においても「公平」の用語は無い。不偏不党である。何処かの圧力によって報道をねじ曲げてはいけないってことで、極論すれば「偏向報道」は当然の姿勢として認めらている。にも関わらず「日本人的な」自主規制で報道機関そのものが自殺してしまったと言うのだ。
 そして、今のジャーナリズムに欠けているのは「見識」だと言う。
 自己の主義主張の土俵を鮮明にし、その上で情報を伝達する。つまり、自己の考え方を披露し、それから個々の事象を伝えるのが報道の見識で、今の報道は垂れ流すか曲解するか、とにかく伝える人間の人間性が無いと言うのだ。それは、職業としての報道が無難に無難にって仕事を積み重ねた結果、陥った自殺だと言う。
 昨今のテレビの報道バラエティのような番組にも2極化していて、本当に見識のある有識者を集めたものもあり、そこそこ面白い。一方、何でも屋が出てる報道バラエティは大局観が無く放談の騒動番組になっている。

有識者って「有、見識者」って意味なのだ
 どうも、研究会と称する集まりで多いのだがメンバー人選に「学識経験者」代表ってのを奉る。これが大学の教授だったりするのだが、民間から入った人は別にして「この道30年」みたいな人が混じるのだが、まるで要領を得ない発言をする。そもそも研究会の趣旨や目指す方法さえご理解いただけてないような人が多い。
 これが「学識経験者」=「学問の知識を得る経験が豊か」つまり、論文読んで知識を得て学生に教え、助手や助教授に君臨する技に長けた人ってことだ。本当は「学識経験者」=学問の知識が豊富で見識も有り、様々な場面でそれを生かしてきた経験を有する人。って意味なんだろうなぁ。
 彼の言った「見識」は昨今死語に近いものがあるので新鮮な用語であった。僕の勝手な解釈だが、彼の言う「有識者」を集めた政治バラエティは「たけしのテレビタックル」あたりだろう。自己主張の放談番組がテリー伊藤に代表されるような「何でもコメントする便利屋」が出演してる番組だろう。
 それにしても「見識が無い報道」ってのは蘊蓄がある。そもそも、見識を出さないと言うか隠してこそ公平な報道が出来ると思われていた時代が長かったのだから。その時代の寵児がニュースステーションの久米宏氏だったのだろう。復帰後アヤヤと訳の解らない番組をやっているが、インタネでのテレビ会議中継なんてのは目新しくも何とも無い。しかも、単なる司会者と言うより一緒に遊んでいるやり方は、もはや通用しないのだ、だから、ドシングルの低視聴率にあえいでいる。
 昔は会社の方針と記者の記事掲載を巡って流血事件一歩手前ってことが日常茶飯事で、それが原因で辞めていく社員も多かったが、今では両者対立することはまれで、しかも対立しても個人の側があっさり折れるってことらしい。会社が使いやすい記者を選別して来た結果、職場は和やかになったが記事そのものはアクが無くなった。そして記者個人の見識が記名記事であっても前面に出てくることが無くなった。その記者も金太郎飴のように没個性だし、個性有る人間を必要とする別な職場もグループの中にあるので、タライ回しすれば済む。結局、本丸はイエスマンの巣窟と化す、とまぁ想像力を豊にして「げすの勘ぐり」もしたくなるのだ。
情報発信も2極化なのか
 BLOGが話題になって、猫も杓子もBLOGって一時のブームは去った観があるが、それにしても玉石混合のBLOGが検索エンジンに引っかかってウザイのは変わらない。個人の日記を開帳されてもなぁってものから、2chの鬱憤をBLOGで晴らすような愚痴BLOGまで、情報化技術の進展で誰にでも情報発信する機器は広まったが、ま、必要の無い情報発信は迷惑なんだって事に気が付かないのかなぁ(と、自戒も込めて)。
 そもそも求められないからああなるのか2CHの会話は情報発信にほど遠い。全国規模の井戸端会議で真偽を別にした情報伝達が主眼で、先に言われた見識は求められない場だ。BLOGもそれで良いと考える人も居るだろうが、少なくとも個人の貴重な時間を割いて一生懸命ゴミを製造することは「反社会的」ですらある。
 これらは放って置いて、最近着目してるのは個人のページで散見される考察を加えたジャーナリズム的な発言である。まさに見識が有る。左翼ですと名乗って憲法9条改正に反対する。ま、本末がどちらかの問題は有る。憲法改定に反対だから左翼に立脚するってワケワカメな奴も居る。多くの書き込みから思想信条の立脚する地点、経験から出た推敲の深さなんかを感じるページがそこそこある。
 「情報発信には発信者に見識が無ければ駄目だ」。実は最初に戻るが彼と話して感じた情報発信手法は、まさにことことなのだ。情報化社会での情報リテラシー教育はお題目のように念じられるが、その修得手法にこれと言った確定的なものは無い。にも関わらず情報科目を入学試験にしたいって動きもあるが、全然的を射ていないと思う。過去、英語を入学試験にする意味を合理的で経済的で民主的での3観点から説明出来ただろうか。ただ、前例世襲からやってるだけじゃないのか。そもそもペーパーテスト以外に選抜手法を持てない大学って本当に最高学府なのか。そのあたりの自省から始めてもらいたい。
 話が逸れた。
 流れる情報量が格段に増える時代を迎えて、情報入手には真偽の判断が大いに必要になる。合わせて情報の発信には「見識」が必要になる。これが、最近、目から鱗の話だった。
日本人は見識を持たないように育てられた
 ある種、見識ってのは個々の人間が持つ個性だが、没個性と言うのか個性が自我どうしの争いを生むなら、個性なんか無くしてしまえって発想が社会にあって、横並びが良いとされ、皆、そのように育ってしまった。
 本来、個と個のせめぎあいが社会なのだが、一枚岩になることが社会人って風潮はいつ頃から始まったのだろうか。たしかにネットに書かれる見識あるページは個性的であり押しが強い。方や2chのような掲示板は匿名性以前に個性が感じられない。
 戦後60年続いた平和が平和ボケを生むように、ある意味、争いのない社会は平板化して個性の無い社会を形成するのだろうか。考えてみると江戸時代、鎖国により300年の長きに渡って外国との争いが無い時代の末期まで日本人は見識が無かったのではないだろうか。江戸末期、明治維新を成し遂げ活躍した人々の年齢を考えると、若者にはまだ思想の再構築の余地があったが、年寄りはまったく付いて来れなかったと思う。
 「治に置いて乱を忘れず」。実は日本社会は長きに渡って乱を忘れて、忘れることが平和になると信じて、で、結局、無見識な人間ばかりの社会を作ってしまったのではないか。となると、前途は多難だなぁ。


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2005.05.16 Mint