亡国の偏差値教育

偏差値教育の一期生
 中学校の2年生の頃だったろうか。今後、学校の成績は100点満点方式から偏差値表記に変わるって説明があった。テストで100点とってもそのテストの平均点によって60とか55とかになるって説明だが当事の数学でも中学校で偏差値を教えていないのでその内容はチンプンカンプン。
 高校生になって大学を受験する頃から偏差値により大学の合格率が決まるってことが解った程度。
 その偏差値教育だが、大学入学試験には便利らしく爆発的に広まった。何をもって「優秀」とするか解らないのでとりあえず偏差値高い学生を取っておけば間違い無いだろうって安易な姿勢が逆に受験生の猛烈な偏差値依存症を生み、しまいには偏差値65で一人前、60でかろうじて人間。50以下なら人間じゃないみたいな偏差値依存社会になってしまった。
 そもそも標準偏差ってのは標準に比べてどれだけ乖離しているかって統計手法で、両脇の5%は特異値として外して物を見て標準像を作り出す。そしてシーター値を見て偏差の度合いを知り多様でなだらかに広く分布するのか、平均値周辺に集中するのかを見る。
 偏差値の上から順に合格させるってモノサシに使うと特異値も含んでしまう異常な集団が出来上がる。そして、その特異値とはペーパーテストに強い、暗記型の勉強を積み重ねてきた者が含まれるのだ。
 人生は答えの無い勉強の場だ。そこにペーパーテストに強い人間がいわゆる「優秀」とされて学閥を積み重ねて40年、国民のほとんどが偏差値ってフィルターで教育された経験を持ち、現在の社会を構成してる。それが、今の日本の状況だ。

正月に電子立国・日本の自叙伝と新電子立国
 かねてから全巻揃えたいと思っていたのだがやはりブックオフあたりで探しても中々出てこない。そこでアマゾンの中古本を探して揃えていなかった6冊を購入した。方法が良く解らずに1円でも安いものって選択したら業者がばらばらになって送料が結構かかった(笑い)。多少の金額の差は我慢して同一業者から買えば2000円は送料が安くおさまったのだが。
 で、改めてショックレーがトランジスタを発明してから2000年頃までのコンピュータをめぐるドラマを読むとアメリカの独壇場だった数々のドラマに遭遇する。もちろん日本人も登場するが追試か製造技術改良に限られる。
 そもそも世の中に無いものを発明しても日本社会が受け入れない、東北大学の西澤さんも述べているが、日本人は日本人の作ったものを信用しない。日本電気なんかは西澤さんが国内特許を持っているにも関わらずRCAに膨大な特許料を払う。しかも、言い分が「RCAのパテントって書かないと製品が売れないんだよね」なんてコメントする。
 ま、この日本社会の特性は後に譲って、何故アメリカの独壇場なのかを考えてみると、日本社会の偏差値至上主義にぶちあたる。
 偏差値が近い人間を高校、大学とフィルターにかけて集めて教育すれば当然他人と同じになれば安心って集団が出来上がる。絶対値で判断するのでは無く、互いの相対位置で自分の座り位置を確保すれば良いのだから。
となると、常に回りの人間の行動の情報が必要になる。過去の偉人の伝記から絶対値を得る必要というか余裕が無くなって来る。その結果、常に相対評価の尺度しか持たない人間が育つ。この相対評価は日本社会のスケールでの相対評価であり、国際競争力って面で独創的先端技術立国となるにはスケールが全然当てはまらない。

ビルゲイツを育てたマザー
 ビルゲイツは変人なんて言われるが、そもそもビルゲイツは1975年の8080のプロセッサーを使ったホームユースコンピュータのアルテアの発売と同時にそこで動くBASICを作れば売れると考えた。日本人ならアルテアを買って開発するのだろうが、ビルゲイツは友人のポール・アレンと慣れ親しんだPDP-8を使って8080エミレータを作り、そのエミレータ上でBASICを開発した。そして、それはまだ見ぬアルテアでほとんど一発で動いた。
 で、ビルゲイツがプログラム技術を習得したのは小学生時代。親たちが子供が興味を持っているのならと街のコンピュータセンターのTSS(タイムシェアリングシステム)サービスの端末を学校に寄贈し、その使用料を集めて子供たちを遊ばせた時に始まる。
 何が面白いのか子供たちが夢中になって遊んでいる端末機を取り上げたりはしない。逆に寄付をつのってどんどん使わせる。その金が底をつくとビルゲイツは自腹を切って使用料を払ってまでコンピュータのプログラミングにのめり込む。後年、マイクロソフトが立ち上がった後も学校に溜まったビルゲイツの使用料の請求書を先生はビルゲイツに送ったと言う。
 子供が熱中するものを取り上げるのでは無く支援してやる。そんなビルゲイツのマザーの行動がマイクロソフトに繋がったとも言える。
 背景には1957年に旧ソ連が人工衛星であるスプートニクを打ち上げて世界の何処にでも核兵器を運べる事態になり、アメリカの科学技術の遅れに国民の安全を守れないのではってスプートニク・ショックがあったと思う。これ以降、アメリカの国防のためのコンピュータ関連技術は軍事主導で進められる。加えて日本の電卓戦争の余波で日本人のアイデアによるCPUとメモリーとI/O装置を一体化したマイクロプロセッサーにまでたどり着く。冷戦&軍事優先って時代背景もあったかもしれない。
 とにかく横並びでは旧ソ連に侵略されてしまう。世界に無いもの、相手が持っていないものを開発しなければアメリカの安全保障は無いって観点から国民の文化まで含めた独創の精神が広く浸透したのはこのスプートニク・ショックに追うところが大きいと思う。
アメリカも意外と「黒船来航」で自ら変わっていったのかもしれない。

RCAのパテントと書くと売れる
 日本のマーケットの特性だろうか、独自開発した技術よりも外国のパテントをありがたがる。特許ビジネスはアメリカの専売特許(笑い)だが、常に自分が世の中で始めて発明したって主張を大切にする国民性にも由来してる。
 同様の日本の自叙伝でも記載されてるが、アメリカではその特許が会社に帰属するとしても現場の誰が発明したかは当時の現場の人間にヒアリングすると明確になる。日本の場合は「誰がそれを考えついたのですか」と聞いても「ま、誰彼ってことなくプロジェクトの中で自然発生的に...」なんてなる。
 そこで偏差値教育による国民性、偏差値が同じ者同士は横並び意識が高くなる、が影響してると思う。
日本人は発明は少ないが発明されたものを根気良く改造して製品に仕上げる能力はある。って意見をあながち本当とは思えないのだ。発明はことごとく潰し、改良は集団で行うために珍重される。ってのが真実ではないのか。実は日本人による発明は山ほどあるが日の目を見ないってことなのでは。
 最近の日本人ノーベル賞受賞者を見ると変人が多い。偏差値が同じグループですら抜き出て成果を上げた人々だ。歴史的に考えてみると、江崎玲於奈さんとか、このような人々は点在していた。それが、今はまったく横並びの組織、集団で特化(奇人)が生まれない社会になって来た。これが偏差値至上主義により教育されてきた国民の「安泰」なのかもしれない。
 ただ世界に肩を並べるにはこれでは国の活力が萎えてしまう。小学校から改革したって結果が出るのに15年以上もかかる。ここは手っ取り早く大学の教育方針を偏差値至上主義から個性重視、横並びから自由競争に改革してはどうだろうか。
 少子化でますます学生が減るのだから、アメリカのコミュニティカレッジみたいに学生も半分はフルタイム学生、半分は社会人やリタイアメントした人。教える側も社会人やリタイアメントした人。誰でもガ受講できるし講義もできる。講座の半分はいわゆるカルチャー教室、半分は現行の講義。単位は選択性。
 工業大学なんかは特に熟練技術者の技術の伝承の場として社会に大学を開放して社会人を多く受け入れる必要があるのではないか。
 偏差値による受験戦争が結局どんな社会を作ったか。日米の半導体産業からソフトウェア産業まで俯瞰して伝える、電子立国・日本の自叙伝、新電子立国は名著だと思う。

button コンプライアンスが必要な社会に何故なった
button 選択科目が教育を駄目にした