偏差値教育、安易な選択科目が教育を駄目にした

亡国の教育は立花隆さん
 「亡国、教育」なんがで検索すると以下の資料が閲覧できた。
http://www.ttbooks.com/boukoku/chapter1/bunkyou.html
非常に長いので要約しておくが、原文に一度目を通すことをお勧めする。
「知的亡国論」を展開している中の一部で衆議院文教委員会高等教育に関する小委員会議事録第一号が転載されているものだ。
立花隆氏が危機感を持っているのは偏差値に偏るあまり、科学への興味が20代で急激に低下してること。そして、中学校後半から高等教育までの間に小学校で高かった科学への興味が激減することを問題視している。
 で、プロの教師を育てる大学(各地の教育大学)が文系中心の入学者構成になっており、オールラウンドで教えなければならない小学校で理科と国語は同じやりかたで教科書を読ませて理解を深めるなんて理科教育が行われている。
 それでも小学校から中学校までは理科への関心は高いが受験を意識した偏差値教育が始まる高校になると急激に理科への興味を失い、1998年時点で20代には急激な理科離れが進んでいると言う。
 医学部に入学してくる学生が高校時代に生物を選択していない例など、偏差値だけで入れる学校を選ぶ傾向が益々強くなり、いったい、大学で何を学びたいのか解らない学生を大学が入学させてる。
 さすが大学側にも危機感があって、補講による大学生としての最低の学力を訓練する指導が行われてる。
 さらに大学生の学力を小学生と比較すると数学では小学生と同程度の学力しか無く、小学生以下も数パーセント出現してる状況にある。特に推薦入学で入学した学生のレベルは一般入試にて入学した学生に比して低い結果が出ている。この推薦入学制度は国公立大学では数パーセントだが、私学では50%に迫る学部もある。これでは大学生の学力は保てない。

高校教育に問題がありそうだ
 小学生と大学生の学力比較を行って大学生が小学生程度っておかしな話で、その大学生が小学生だった時に今より学力が高かったってことだ。つまり退化した?
 数学なんかの計算問題は使わなければ確かに退化する。昨今はやりの脳力トレーニングでも四則演算を行うのは、脳の活性化に反応速度の向上を求められる計算問題が最適だからだ。
 高校時代にほとんど計算しないと計算能力は退化する。その結果、大学生と小学生の計算能力が同程度になってしまったのではないか。では、高校教育はどのように行われてるのだろう。
 昔と違って最近の高校は大学並みの講義選択制度が広がり、選択科目が増えている。
とある県立高校の例を見ると、例えば、1年次は「音楽と美術」のどちらかが選択できる。二者択一である。これは昔もあった。理科については、理科総合、化学がこれは必須である。
2年次になると選択が広がり、社会では日本史、地理のどちらか選択、理科では物理、生物、化学Tが選択nになる。
3年次には理科では物理U、化学U、生物U、詳説物理、詳説化学、詳説生物となっている。この「詳説」ってなんだぁ(笑い)。
 で、単位は当然のようにペーパーテストで行われ一定の点数を越えた者に授与され、それが卒業までの単位数に達すれば卒業となる。
まず、驚くのが高校で生物を取らなくても卒業できるって点。先の医大に入学したが高校で生物を取っていなかったって例が可能になっている。歴史にしても日本史を取らないで卒業できる。さすが世界史Aは必須になっている。
 理科では物理と化学、社会では世界史と地理で単位を取って卒業できる。数学については悲惨で数T、数Aだけで3年生で数学が無い選択もありだ。1年間数学なしで文型の私学に進んだら。やっぱ、コンビニのバイトしても暗算でつり銭出せないだろうなぁ。それが偏差値教育と選択制によって起きた結果なのだ。日本人の常識を身につける教育制度が偏差値重視の非常識に変化している。

的確な選択科目になっているだろうか
 好奇心ってのは最大の学習効果を生むが、好奇心が無くても基礎学力に含まれる分野も多い。心臓が体の何処にあるかあたりは生物以前に常識だがこれをどの教科で教えるかと言えば生物しか無い。エネルギーの第二法則はまったく習わないで学校の先生になる奴も出るだろう。高校で専門家を育てる教育が導入される必然はあるのだろうか。義務教育と違った広い見識をはぐくむような高校教育が大学選択時に自分の将来像とともに生かされるのではないか。大学が一部のエリートのための高等教育だった時代と現在では高校での授業のあり方は変らざるを得ないはずだが、どこがこの20年で改革されてきたのだろう。あいかわらずの偏差値主義のまま時代の変化に虜のされたのが今の高校教育ではないのか。
 早くに専門教育に取り掛かっても常識の無い人間は育たない。専門教育は大学と高校の交流の中で行えば良いのであって、高校が背伸びして大学化する必要は無い。
 で、先の「文系が教員になっている弊害」なのだが、先の立花隆さんも言っているのだが科学の進歩が非常にマイナスな事象として扱われてる教育の現場って問題がある。
E−JAPANに代表されるように教育の現場にパソコンが普及しはじめた。
 旧来の視聴覚教室のように鍵をかって誰も入れないからはじまって、パソコンの使い方を覚えるのは苦痛だから誰か手のあいた教員に押し付ける。自分の手法は変えず、手書きの補助資料で生徒に接する。科学が発達するとおぼえることが増えてそれだけで科学の進歩を否定的に見る傾向がこの文系k教員には多い。その雰囲気がそのまま現場に浸透し、学生の科学離れに拍車がかかる。
 大学も同じで、私の知ってる大学では照明工学の授業でハサミとのりを持って来て家具を切り出し貼り付けてデザインと照明の関係を実習してる。パソコンルームは学生の溜まり場でインタネ見ながら時間つぶし、決してクリエイティブな作業にパソコンを使っていない。で、その状態が放置されている。教員は質問されても答えられないのでコンピュータルームに近づかない(苦笑)。

偏差値よりも常識のカリキュラムが必要
 先に近代史のカリキュラムが必要と書いたけれど、科学技術についても近代の技術中心に物理、化学、地学等を統合した文系用の入門カリキュラムが必要なのではないだろうか。
 少なくとも19世紀の科学を専門的に習う前に20世紀の特に後半から21世紀への科学を横断的に学習するカリキュラムが必要だろう。ニュートンの万有引力の法則よりもインターネット接続のIPアドレスの仕組みを知るほうが日常生活では重要なのだ。つまり、偏差値のような学力差を明確にする教育では無く、最低限全員履修の常識教育が必要になる。
 これは社会科学にも言えて、いわゆるモラルハザード、コンプライアンス欠如なんかを防ぐには「道徳教育」では無い社会常識を教える科目が必要になる。社会に出て常識になる商法あたりの入門編を高等教育で行ってはどうか。
 学問は専門的になるほど縦割りになる。また、各種学会のように専門特化で進展していく。そこに科学を横断的に見る常識が欠落してくる。一人の人間の人生の過程がそのようであってもしょうがないが、教育体系が年代によって教えられることが変化するのはおかしな話だ。専門性が進んだ時代に教育を受けると横断的な常識が欠落するのは不幸な話だ。
 国民の教育のレベルは、学業の成績では無く、もち備えた教養で決まる。偏差値を利用して学業成績で学力を測っていると国民としての教養のレベルにまで考えが及ばない。実は、教育の大きな目的は教養ある国民を育てることにあるのだ。
 教育カリキュラムの現状から見直さなければならない。今こそ教養としての常識教育が欠落してる時代は無いし、これから、ますます悪化の方向を辿るだろう。

button まず大学から改革を始めよう
button 日本史、世界史なんか辞めてしまえ