過去から教える必要は無い
歴史は中学では必須、高校では選択になっているようだが、この年代の青少年に歴史を神話の時代から初めて大化の改新そして現代まで教えるのは無理があるだろう。
無理は教える側よりも教わる側に発生する。起承転結、因果応報が歴史教育だと考えると今のような教育カリキュラムになるのだろうが、青少年には過去30年程の近代史(と言うより現代史)を教えるのが本来の姿ではないだろうか。
今自分が生きている「時代」は縄文時代の延長線上にあるのではなくて、30年前に何があったか、が影響している。歴史の入門編として近代史とそれ以前に分けて、入門は近代史からとするのが良い。自分の進路を見出すために有効な歴史教育は現代がどのようにして作られたかを教えることだろう。太古の昔の出来事を年代の丸暗記で覚えるのは偏差値教育の弊害である。
「歴史は繰り返す」ならば、1ターンの繰り返しを教えれば良いのであって何回もクルクル回って現代に辿り付かなくても良い。その意味で現代史ってカリキュラムが必要なのだが誰も改革に手を付けない。漫然と歴史教育を続け受験科目になり、丸暗記の歴史授業になり受験が終われば誰も歴史を紐解かない。
その結果、本来青少年の多感な時期に有意義な物事の成り立ちを歴史から学ぶことが出来なくなっている。
僕が中学生だった頃に4月の歴史の最初の授業で「歴史とは何か」を知らべて次回各自発表しなさいって課題が出た。で、次回、「歴史とは人類が積み重ねた事柄を記載したもの」とか、ま、国語辞典を引いてきたような答えばかりが出た。で、かの先生は「歴史とは、過去人類が行ったことを知り、二度と過ちをおかさないように知識を習得する学問」って、これまた北教組のプロバガンダか、みたいな説明をした。で、一発で歴史が嫌いになった(笑い)。
起きた事象には裏がある。その裏を自分の経験を踏まえて推測するのが歴史の醍醐味だろう。そして様々な歴史観が形成される。それが相互の意見交換によってさらに高度な歴史観に成熟する。
そんなことを15,6歳の青少年に出来るはずがない。小学校で英語を教えたり株取引をさせたりを愚行だと思う人は自分が中学校時代に人生経験も無い若造に歴史を教えていたことがいかに愚行であったか自ら振り返って考えてもらいたい。
青少年期に日本の歴史を全部ってのも変な話
変と言うのは、歴史は人間が作るもので思春期にまだ彼氏彼女の居ないあたりで人間を理解せよってのは変な話だってこと。歴史を理解するには人間を理解しなければならない。
話が逸れるが、数十年前に異業種交流会なんかが盛んだった事があって、ここで知り合った30代後半の会社員が親睦会の席で「じつは、いま日本文学に目覚めて夏目漱石の「こころ」を読んでるんです。いたく感動してます」なんて言っていた。そういえば本棚の隅にあったかなと帰宅してから取り出して読んだ。その時に思ったのは彼と違い学生時代に読んでおいてよかったって感想。
人間にも旬があって、夏目漱石の「こころ」は若い頃に読まないと価値が半減する。「こころ」の内容に未知な感じを受ける時期に読むのが旬で、さすが会社勤め15年を経て読んでも感じるものはすいぶん薄まっているだろう。
今自分が住んでいる時代はどのような経緯で出来上がったのだろうかって青春の好奇心を満たす科目として歴史が教えられなくてはならない。そのためには繰り返すが現代史を科目として据えなくてはいけない。
これから歩んでいく人生に道を記しはじめた青少年に地球儀片手に道を教えているような滑稽さが今の学業教育のなかの歴史教育だろう。
地球が丸いって事を知ることよりもまだまだ沢山知ることがある世代なのだ。なにも受験戦争で丸暗記科目になっている歴史で脳みそを酷使することもないだろう。偏差値教育の結果、何らかの点数による偏差を生み出すために、歴史教育が行われているとしか思えない。
小学校で英語にも腹が立つ
ま、それ以前に小学校の社会学習で商店経営や株取引のゲームをしてるってんだから、この国は何処へ行こうとしてるんだ。
我が家の80歳を過ぎた両親のもとに地域の中学校の社会勉強の一環で地域の老人から昔の事柄を聞いてきて発表するって授業でおうかがいしたいと突然電話が入った。
全ての段取りを中学生がやるみたいで、突然の中学生からの電話で逆に学校に電話して真偽を確かめたそうだ。中学生が金属バットを振り回して事件を起こす時代に学校は地域への説明責任をどう考えているのか。
で、4,5人の中学生が訪問に来て、ま、お菓子とお茶でも出して「じゃぁはじめましょうか」と声をかけたら中学生の最初の発言が「好きな食べ物は何ですか?」だったと言う。さっすがに親父も切れて「そんな、ことを聞くために来たのか」と憤慨すると伴に、ま、自分の1/5も生きてないんだから頭ごなしに怒ってもと思ったそうだ。が、夜になって自分の旧制中学の頃を思い出して「昼間の中学生は何だ」とまた憤慨したらしい。
社会勉強たって最低限のマナーや方法論すらマスター出来ていない子供を訪問に出すってのはいかがなものかと思う反面。この子供達が歴史を学んで何になるのだろう。それこそ、国費の非効率な用法ではないのか。
高齢化社会と言うか、高安全社会では人間の成長のテンポが遅くなる。自分自身に振り返ってみても今の大学生は我々の中学生時代の礼儀、言葉使い、思考、教養が身についていない。そんな世代の是非ではなくて、教育カリキュラムだけ60年前と同じテンポで良いのか。見直す必要は無いのか。誰もそれを叫ばないのが不思議だ。小学校で英語なんて、逆流の発想だろう。ただ点数化して偏差値を計算する。目的と手段が真逆になってしまったのが小学校での英語教育だ。
落ちこぼれを生む三大教育事件
今の義務教育期間に限って言えば、九九、英語、歴史が落ちこぼれを生む三大教育事件である。この三つを全て乗り越えないと落ちこぼれになる。悪い意味で落ちこぼれって言葉を使っているわけでなく授業に付いていけなくなり「お客様」になてしまうってこと。これは特に義務教育では逃れられないのでじっと教室に座っていなければならず、本人にとって大変辛いことになる。
九九が解らないまま成人した人が意外に多いのには驚かされますが、小学校三年生でここに落ちこぼれると小学校卒業までほとんど算数に付いていけません。これが最初のフィルターになります。それを無事潜り抜けても中学校から英語が始まります。ここでこけると中学校卒業まで英語は苦痛以外のなにものでもありません。これが二番目のフィルターになります。
で、私は三番目のフィルターである歴史にまったく太刀打ちできませんでしたね。先の北教組の教祖みたいな先生だっただけでは無くて、まったく興味が無かった。しかも文久何年とか天保何年とか言われても物事が時系列に並ばない。生まれてからずっと昭和だったので、元号はまったく不得意、そこで西暦対比表を作るのだけれど、これが記憶のメモリー容量を増大させてメモリーパンクを引き起こす。
試験は、丸暗記。まるで数学で「1+1=2、1+2=3」と考えられる組み合わせ全部を覚えるような丸暗記。応仁の乱がその後何を引き起こしたかなんてのはまったく知らない(笑い)。
そうなんですよ、理屈で覚える歴史には人生経験が必要なのです。なにも14,5の人間に人類の歴史を背負わせることは無い。非効率な教育にメスを入れなくては前例世襲主義で日本の教育は歪み、国際競争力を無くしていく。
最近、コンビニでレジを打ち終わったあとに「あ、タバコもくれる」って言うと電卓持って来てつり銭計算する光景を良く目にします。若い人の数を数える力はそうとう落ちてると体感するのです。
偏差値教育のもと、全然実社会で役に立たない教育がはびこっている。