朝日新聞の「格差キャンペーン」は哲学が無い

朝日新聞の購読を辞めた
 野放しにしておくと何をするかわからない朝日新聞なので監視の意味も含めて40年も購読していたのだが、さすがに「格差キャンペーン」には切れて、たまたま休日に集金に来たので「もう読まない。明日から持ってくるな」とタカビーに対応してしまった。何に怒っているのか解らない配達員は「5日ほど残っているのでお金返します」と言ってきたので、引越しの食器包みに使うから月末解約で良いと言っておいた。
 何が気に入らないって昔の朝日新聞の珊瑚KY事件からそうなのだが正義の味方ぶった一連のキャンペーンが鼻をつくのだ。教育に新聞を使うって「NIE(エヌ・アイ・イー、 教育に新聞を)」もおかしい。新聞は新聞社の姿勢に立脚した「かわらばん」だ。売れるために書いている記事にも関わらず、それを教育の現場で使う姿勢はいかがなものか。事実を面白おかしく伝えるのが新聞社であり、その姿勢が如実にあらわれてるのが新聞記事だ。その中から真実に迫ろうってなら別だが、今の成績至上主義の教育では書かれてる内容を鵜呑みにして暗記する授業しか成り立たない。せめて、高校でなら解るが小学生に新聞社の勝手な論調を読ませることが教育とは思わない。そのそも教科書に書いてると同じく新聞に書いてあることが真実だと思い込んでしまうと以後の人間形成に支障をきたす。
 そんな新聞を教育の現場に、それも義務教育に持ち込むのは国家反逆罪一歩手前ってことだ。死刑を適用しても良いくらいの重大犯罪だ。
 今回の「格差キャンペーン」に切れたのは、朝日新聞の記者の年収は幾らなんだぁ!ってこと。1300万円なんてデスクがゴロゴロの朝日新聞が行う「格差キャンペーン」には差別の匂いすら感じる。特に「学力と世帯収入」あたりは教育の機会均等が壊れてると知ったかぶりの論調。
 いいかぁ、学力では無くて成績なのだ、朝日新聞が統計分析できるのは成績と世帯収入の相関関係であって、学力と世帯収入では無い。それを「学力」って言葉を使って低所得世帯の餓鬼は馬鹿みたいな論調を年収1000万クラスの記者間で行ってる高慢ちきなたいどがそのまま紙面に出てる自己中心のエリート意識に立脚した国民蔑視。
 集金に来た販売員を怒鳴りつけたくもなる。

格差は悪いことか?
 小泉純一郎首相も末期だなと思うのは国会答弁で格差拡大が小泉政権の5ヶ年だったといわれて「私は、格差があることが悪いこととは思いませんよ」って答弁した下品さ。何故、下品かは後述するが、何故、悪いと思わないのかは説明しない。
 国会議員がいわゆるバラエティ番組で「憲法の保障する平等に反するから格差は駄目なんだ」って発言には開いた口が塞がらない。こいつ、国会議員に良くなれたなぁ、選んだのは千葉県民あたりらしいが、学力無いなぁ。
 一般に日本国憲法で平等をうたっているとの誤解がある。これは教育の責任なのだが日本国憲法を自分で読まないで他人から聞かされるから憲法は平等をうたっていると勘違いする。インタネで検索すれば沢山あるから一度自分の目で読んでみることをお勧めする。憲法の条文には「法の下の平等」と、なんびとも法律の下で有利になったり不利になったりしないって精神を憲法でうたっているのだ。そして作られる法律も平等に適用されるってのが誤解されてる。「法の下の平等」が正しい。
 そもそもフランス革命で作られたフランスのトリコロール(三色)の国旗だが「自由・平等・博愛」の象徴と言われている。この中で「平等」だけが、異質な考え方でそれまでは平等の概念が無かった。ただ、人間は全て平等であるって平等はヨーロッパのキリスト教を土台にした文化が背景にあり、王は国を統治する権利を神から委ねられている人ってそれまでの概念を改めたものだ。ま、だから革命なのだが。
 その「平等」はやはり明示されてない面もあるが「法の下の平等」と解釈すべきだろう。アメリカの憲法は「法の下の平等」とある。ちなみにアメリカの憲法には「男女平等」や「人種平等」は明文化されていない。ちなみに日本国憲法でも人権の平等は明文化されてるが、「男女平等」の文字は無い。これも多くの日本人に勘違いされている、一回、憲法を読めよなぁ。

で、格差は悪いことか
 それぞれの立場で発言に注意と言うか配慮が必要だと思うのは、格差に対する配慮だと思う。朝日新聞の問題点はいわゆる「勝ち組」と自身が感じている層が格差キャンペーンをやって配慮に欠ける下品さ。小泉純一郎首相は首相って立場で「格差があっても良い」と述べる下品さ。
 それは日本の文化を無視した個人的感想で動いている立場をわきまえない下品さが臭おう。そもそも日本の文化は格差を認めているが、それぞれの立場で格差是正に努力する文化を、表現は適切では無いかも知れないが「強いている」。
 西欧の文化がキリスト教やイスラム教で社会秩序を形成していたように、日本では宗教が社会規範とはならず300年も続いた封建社会を支えたのは実は「武士道」だった。西欧の封建社会を支えたのは宗教。ここに大きな文化の違いがある。
 日本国憲法を読めと言ったが、もうひとつ1899年に英語で出版された新渡戸稲造の「武士道」を読んでもらいたい。日本の(当時の)文化を世界に紹介した「武士道」だが、今の日本の閉塞感は文化の方向を見失った結果ではないだろうか。この「武士道」を読むと解るのは日本には独自の文化があり、その歴史の流れから日本を語るのが正当で、他の文化を模倣する方向は日本文化の崩壊に繋がる。
結局、終戦後のアメリカの文化侵略(ま、一番の先導役は私だったような気がするのだが)を受け入れた日本人は腰抜け(チキン)だった。が、そのままテレビって媒体で文化的洗脳(侵略)は続いた。だいたい、アメリカのドラマを流した放送局を許した当時の郵政省は日本の文化って視点があったのか。日本人洗脳のテレビドラマを流し続けた放送を見た世代が言うのもなんだが、基本的に日本文化喪失に当時の行政府が何も手をうっていない結果、今の日本ができたって認識があるのかなぁ。
 格差は悪いことなんですよ。日本国の文化では法の下の平等なんて以前に社会が担う機能として所得も含めて「平等」が前提なんです。その平等を保つために西欧では教会への寄付って行為があるのですが、日本には何も無い。だから、新たな制度造りの努力をいわゆる「勝ち組」に求める文化が日本にはあります。
 安達由美の「同情するなら金をくれ」ってのは、為政者は自ら律する規範を示せってことです。格差を是正するのが政治です。そのトップである小泉純一郎首相が「格差があるのが悪いとも思いません」って国会答弁することは国家の品格を担っているって責任感が無い。

格差是正の方策を探るのが政治
 「格差があっても良い」って発言を政治家はすべきでは無い。何故なら「武士道」に記載されているように、権力者は金と離れてこそ権力が保たれるのであって江戸時代の「士農工商」は身分制度と言うよりは「武士道」文化の規範であった。武士と商人は一番離れた関係で無ければならないって規範だ。
 いやしくも国を司る者は商業の利益を感受するような行動をしてはならない。この「武士道」の規範が政治家に無いから政治と金の癒着が生まれる。それは政治の構造の問題では無く政治家個々の精神の問題が根本にある。
北海道で長万部町の町長が官製談合で逮捕されたが、これはまたか」と見るのでは無く、腐った精神を持った町長を選んだ町民の恥ずべき事件と見なくてはいけない。精神の歪んだ人間は「恥の文化」で裁かなくてはいけない。
 格差は有っても良い、その是正策こそが政治なのだ。朝日新聞はまったくその精神が欠けている。勝ち組みによる勝ち組みから見た格差報道に国民蔑視が行間から読み取れる。自分を文化人だと思っている人は、朝日新聞のこのような姿勢に自らも洗脳されていることに気がつくべきだ。。即刻、購読を中止し日本文化って哲学無き赤旗的な新聞をやめるべきだ。
 政治が民衆と乖離するのは、まさに「武士道」の精神が無き者が政治家になるからだ。時代の最高権威であった武士ですら「武士は食わねど高楊枝」でひもじさに耐えることを求められた。その中に自律が芽生えると武士は師弟を教育したのだ。
 政治家(除く、共産党、公明党)は今一度1899年に書かれた新渡戸稲造武士道「BUSHIDO」を読み今後100年の大系にたった政治を行って欲しい。

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