未履修問題はコンプライアンスの問題

OhmyNews(2009年4月30日閉鎖)掲載の記事です
最悪、最終学歴中卒でもしかたがない。
 調査すると高校での必須授業の未履修問題はいわゆる進学校の受験対策に端を発して私学の調査が終われば全国でどれだけの高校が必須授業を省略していたかの実態が明らかになるだろう。
現時点で文部科学省の対応は「救済策」一色だ。また、学校関係者や高校生本人から「しょうがないんだ」の声が聞かれる。未履修問題を考える時に当事者である現在の高校三年生には晴天の霹靂でオロオロしてしまうのは同情するが、基本的に社会のルールは守らなければ国民は法の下の平等を甘受できないのであって、特例特例で個別対応していては結局、不平等が大手を振って闊歩する結果となる。
更に気になるのが、既に履修不足のままで大学に進学した元生徒、さらに大学を卒業して社会人になった元生徒は放置されるのだろうか。これを一般用語で「逃げ得」と称するのだが。
昨今、民間企業に強力なコンプライアンス(あえて、「法令順守」と訳しておきますが)が求められるのは公正な競争を行って、その結果優劣が付くのなら良いが、不公正な競争で勝ち組、負け組みが決まる社会は望ましくないってことだ。
バブルがはじける10数年前にアメリカに行ったが、ここで日本は不正競争を行っていると指摘された。多分に感情論もあるのだが、例えば、サービス残業である。アメリカでも日本人は夜遅くまで働く、そして家庭の芝生も伸ばし放題、地域の活動にも参加しない。アメリカ人は家庭に戻って芝生の手入れもするし、地域の活動にも積極的に(社会の掟だからって面もあるが)参加する。
この時間を日本人はビジネスに充てる。これでは公正な競争が出来ないって趣旨であった。
「世界が100m競争を行おうとしてるのに、日本人だけはスタートラインを20mも先に延ばして80mしか走らない。それで10秒を切ったと自慢してるのが今の日本人の文化だ」とかなり手厳しかった。
スポーツの社会にはルールがある。自分に都合よくルールを解釈しては同じ土俵で戦えない。そのような行為はスポーツマンシップが無いと参加もままならない。
日本社会全体が戦後教育が原因かどうか別にして、いわゆるコンプライアンスが無い、自分に都合が良い解釈に流れているのではないだろうか。
昔、F1でターボエンジン規制が始まる時に本田宗一郎氏に部下が報告に行ったら「俺の会社だけか」と聞かれ「全チーム同一です」と答えたら「それじゃ気にすること無いだろう。みんな同じなんだろう」と一喝された話がある。
戦前軍縮会議で10:10:4に艦船の軍縮が決まった時に山本五十六氏は「訓練は軍縮対象では無い」と語った。
ともに先人のルールは守ろう、でも、努力までは規制できないとの思いがあったのだと感じる。
何故、受験対策で努力では無く不公正な時間捻出に繋がる未履修で対抗したのだろう。
どこか、基本的な部分の大きなねじれが日本社会を覆っていると感じる。たぶん、公正競争の精神が欠落してしまったのだろう。自分さえ良ければってのは、人を愛する心を失い、しいては、社会、国家に背く行為になってしまうのだ。
愛国心以前の問題で公徳心が欠如してる日本文化が様々な場面で噴火してる、その一火山河口を我々場未履修問題って断面で見ているのかもしれない。

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2006.11.05 Mint