政治家の活動を判断する時の3S(スリーエス)能力

民主主義制度は未完成ではあるが
 現状では選挙による民意の反映ってのは最上の方法かもしれないが、どうも、その民意の母数によって合理的か無理筋なのかが分かれると思う。
 このあたりの考察は前に書いた民主主義の最適サイズを考察するを参照してもらいたい。
 衆議院が憲法7条による解散になって、既に選挙モード突入だが、民進党のゴタゴタや「希望の党」の立ち上げと、選挙以前の政党の「席替え」(笑い)が活発になっている。
 ま「排除の論理」ってのは新党魁(さきがけ)から民主党に移行する当時に語られたが、その内容は「俺より偉い人はいらねぇ」ってことだろう。今回の「希望の党」の「排除の論理」も表向きは主義主張を共有できる人ってことだが実質、小池百合子氏を超える人材はお断りってことだ。
 その象徴が若狭議員が泳がされてることで解るだろう。肝っ玉の座っていない希望の党としては一番使いやすい「小番頭」が若狭議員だから座っていられる。虎の威を借るキツネって感じをここまで映像化できるのは若狭議員のテレビ出演だろう。
 目が泳いでいるなんてのは表面的な話で、実際にテレビ画面から受ける印象は「肝が座ってない」だろう。
 翻って、小池百合子代表からは何も聞かされてない小番頭なんだろう。お嬢の風呂敷包みを持って後から付いていく小番頭には対外的な交渉力は無いのが常識だ。
 「政党」って制度は非常に不安定な制度だ。憲法にも明文化されてない。唯一法律で明文化されているのは「政党交付金」だ。そもそも、何をもって「政党」とするかは法律論で言えば曖昧だ。
 その中で「数の論理」が必要な現行の民主主義制度の中の「多数決」を得るための仕組みが「政党」であり、たかだか、それだけでしか無い。
 衆議院議員選挙では有権者は政党に投票するのは「比例区」だけあって、基本的に選挙区内の個別の候補者を選らんで投票する。マスコミが勘違いしているのは「政党支持率」が選挙結果を予想する要因だと考えていることだ。
 いわゆる「選挙に強い奴」ってのは政党のバックアップが無くても選挙で当選する力がある。

選ぶ者の使命を自覚せよ
 政治かは選挙で選ばれた代議士である。代議士ってのは律令国家の統治機能としては「代議員制」が選ばれているからである。
 直接民主主義制度は地方自治に置いて地方議会選挙と組長選挙と2分されているが、ま、この制度の問題点は大きすぎてここでは書かないが、国会の統治機構は議院内閣制となっている。
 つまり、国民が立法府を選ぶのが選挙であり、立法府が行政府の長である内閣総理大臣を代議士として選ぶのが議員内閣制だ。
 つまり、我々有権者は地方議会と違い立法府の長を選ぶことは出来ても、行政府の長は「代議員」に委ねるしか無いのが、現行の「議院内閣制」だ。
だとしたら、直接投票する対象である立候補者を評価する仕組みを作っておくべきだろう。マスコミはセンセーショナルな事を扱うので結果的に世論操作が行われるが今そこに有る候補者」って視点を忘れてはならないだろう。加えて「政党」なんて僧学校の席替え程度の事で一喜一憂する政党なんてのは無視した方が良い。
 政治家(代議士)は選挙を経て担わなければならない職務が3つある。一番大切なのは「立法府」の代議士って視点だが、それは立法の仕事してないから望めないだろう。
 そこで、選挙で投票する時に政治家の「3S」に着目したい。
 候補者の政治姿勢が
1)政策
2)政局
3)選挙
のどこに立ち位置があるかってことである。
 本来、立法府の代議員を選ぶのだから「政策」を明確にして、立法する是非を問うべきなのだが、必ずしも、そのファクターばかりでは選挙で選ばれない。
 実は、多くの議員が「政策説明会」なんて言ってパーティ券を売りさばいているが、その内容のほとんどは「世間話」でしか無い。役に立たないマスコミ情報を練り上げただけのものだ。実際に参加して途中で席を立ったことが何度かある。
 次に「政局」だ。ま、当選してしまえば衆議院であっても数年はクビにならないので安泰なのだが、それでは暇すぎるので様子見に終始する。あっちにくっ付くか、こっちにくっ付くかの状況判断に熱心になる。それは、次に話す「選挙」の活動にも直結するのだが、なんせ「政党助成金」って自分たちが国民の財布から勝手に金を引き出すキャッシュカードを得ているので、政党の御意向は金の入手方法と考えている。
 で、「選挙」なのだが、日々の政治活動の積み重ねをしていないので、慌てて選挙対策、つまり当選方策を模索しだす。現在のネット社会でネットを通じて「日々の」活動を情報提供している国会議員は少数だ。あきれるのは「活動報告」なんてリンクをクリックすると2年も前の情報のままで更新されていない国会議員も多い。おいおい、衆議院は解散されたんだぞって言いたくなる。にも拘わらず、個人のHPも更新せずに急にFB(フェイスブック)に現れたりする(神出鬼没ってやつか!)。

選挙での投票が一過性なのが問題
 選挙はある意味で国民の国政に関わる基幹なのだが、前回の衆議院選挙で小選挙区はこのシト、比例区はこの政党って覚えている人は意外と少ない(半分くらい)なのではないだろうか。
 現在の制度は代議員制度なので、国民は投票して託したら責任を全うしたと考えるのもありだ。だが、三権分離制度に於ける「相互監視」の制度が投票した(託した)国民と代議員の間に存在しないのだろうか。
 実は、ここが問題だと思う。当選したら「おらが天下」、投票したら「義務を果たした」って仕組みに慣らされてしまったのだ。それを助長したのがマスコミ報道の脆弱さに起因する。
 本来、マスコミには「政治の監視役」ってスタンスがあった。それが「反体制」に変わってきている。それは国は悪さをするって日本の左翼に代表される「後期のGHQ」が描いたマスコミのあるべき姿の呪縛に端を発し、1970年代からの学生運動世代が編集権を得ている世代感にも起因している。
 マスコミは「権力の監視」機能だったのが「反権力」になってしまった。そこから発せられる情報は「報道しない自由」を超えてフェイクニュース(飛ばしネタ)にまでなってしまった。意思の根源が「反権力」なのだから、行き着く先としては当然の帰着なのだろうが。
 ネット時代に入って、マスコミの自らの立ち位置を擁護する報道には問題が有ることが指摘されている。今までは放送法のあるテレビを筆頭に国民は真実を伝えるのがマスコミと信じてきたが、どうも違うようだと気が付き始めた。
 結局、投票後の行動を「睨む」機能は誰にも任せられないってことになった。逆に言えばマスコミが「睨む」機能を放棄して「反権力」に舵を切ったのだから、任せられない存在になったてことだ。
 衆議院議員選挙では昔のように「投票したら託した」ってのが通用しなくなった。何故なら昔のようなマスコミ機能が無いので、個々人が投票に責任を持たなければならない。支持する候補者が落選したら、その候補者に対して当選した議員に投票した国民は「説明責任」(ま、ここは笑うとこかな?)が生じる。それが「民主主義」の基本だ。
 来る衆議院選挙で本当に1票の重みの責任を覚悟してもらいたい。

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2017/10/09
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