日本大学の危機管理は反面教師

発端はささいな事だった
 ささいな事と表現すると日大の加害者である宮川選手に失礼だが、日本大学って組織から見た場合、スポーツでの行き過ぎた指導ってのは有りがちで、それは各スポーツ部の問題で日本大学全体の問題では無い。ヘタに騒ぐよりよっぽと良かった。
 ただ、その前の動きは日本大学のアメフト部の手を離れて関東アメフト学連に届いていたことを見過ごしていたようだ。
 一連の出来事を時系列に5/25までを掲載しておく。(番号は参照用)
No日付出来事会見場所
12018/5/6関西、日大定期戦事件発生
22018/5/10関東学連宮川選手、出場停止
32018/5/12関西学院1度目の会見抗議文の発行
42018/5/15日大日大、抗議文への返答届ける
52018/5/17関西学院2度目の会見経緯説明を再度
62018/5/18宮川選手被害者へ謝罪双方の家族も立ち合い
72018/5/22宮川選手会見謝罪(事実確認)
82018/5/23内田監督・井上コーチ会見謝罪(釈明)
92018/5/24日大日大、再返答書届ける
102018/5/25大塚吉兵衛学長会見謝罪(釈明)
112018/5/26関西学院3度目の会見日大再回答書に反論
122018/5/26被害者の父親(奥野康俊)会見被害届状況
132018/5/26日大甘んじて受ける

 この後のゴタゴタはアメフト部問題から日大問題に転換(昇華)するのだが、そこは宮川選手の勇気の尻馬に乗った行為としか受け止められないので割愛する。
 そもそも日大の問題は1968年の日大紛争(一部には日大闘争と称されてるが)、50年も前から芽があったのだ。結局、芽が育って根を張って大木となるのを防げなかったので1968年の日大紛争は結局の所、改革の出来ない革新派って当時から続くPDCAが出来ない左翼の歴史を繰り返しているのだろう。

個別対応の悪癖
 危機管理の基本なのだが「下に任せる」ってのは戦術として第一段階の選択肢なのだが、方針としては「全体に及んだ場合は」ってのを想定しておく必要がある。
 何回も書いているのだが、物事の展開は下記の方法で行われると分析すべきだろう。
1)方針(何を目指すかの明確化)
2)戦略(その為に、今手元には何が有る、何が無い)
3)戦術(戦略を踏まえての活動計画)
 危機管理に限らないが、今、どのフェーズで意見を言っているのかを明確に把握しないで議論をすると無駄な議論になる。ま、このあたりは「会議5悪」ってので書いたので参考にしてもらえると良いかなと思う。
 旧日本軍では「逐次投入」って戦い方をしたが、これは大本営が「方針」は理解しているが「戦略」を理解していない事の証左だろう。石油が無いって戦略は解っていたのだろうが兵器が足りないって問題を戦術問題にしてしまう間違いを犯したのだ。
 日大の対応を辿ってみると、アメフト部の競技で起きた問題が大きくなるなぁって感覚が不足していた。教育機関だから「自分がトップ」って社会の悪弊が前面に出てしまった。実はこれは1968年の日大紛争でも指摘された基本的問題点なのだが。
 今でも1970年代の学生運動の発火点は日大だと思っている歴史観を持っている。当時、全国に飛び火した学生運動は60年安保の反省(ある意味、戦略の見直し)から始まったのだが、代々木系(共産党)が「学徒出陣」みたいな事を扇動したのが分裂を生んで混沌となって今の革マルと中核に終焉する結果となったが、基本は現場で「戦略」を語る事を愚として共産党が認めなかった事に起因する。今もそうだろうが、共産党ってのは兵士に絶対服従を求める組織で、戦略や戦術は現場で語る事柄では無いって行動基準を持っていて、これを学生運動に「指導」したことが混沌として70年代の学生運動を扇動した。
 その歴史観が無い日大は(理事長は相撲バカと言われているが)、1968年の日大紛争を体育会系の学生で鎮圧した経験を踏まえて、力で鎮圧出来る成功体験が根強く文化を形成していたのだろう。
 70年代安保闘争でも地方の大学ですら体育会系が運営者側に組する事例は多かった。ま、私の居た北見工業大学では逆だったけど。
 危機管理の基本は芽が育ち始めた時にどう組織として対応するかの決断が、先のどのレベルで考えられるかなのだが、日大は3)の戦術、逐次投入で対処できると判断したのだろう。
 マスコミの扱いを肌で感じて「逐次投入」(上記の項目8)は焼け石に水なんだが、そのシナリオが戦術には程遠く、上から目線の戦略を語っている司会者ってことで明確になっているだろう。
 問題が発生するとツッコミどころは満載で、それに対処するには、ひたすら受け手に徹するってことなのだが、共同通信を定年退職した司会者には「昔取った杵柄」なのか本来踏み込んではいけない「仕切り」を発揮して、これまた炎上を招いた訳だ。
 余談だが、関西学園のディレクターは元朝日新聞の社員で、投げっぱなしの共同通信とは社風(ま、肯定しないが)の違いが見て取れる現象だった。

組織は指揮命令系統の構造
 組織を運営するには組織の構成員とは違った苦労がある。ま、SNSで散見される従業員の意見も解らないで無いが、基本的にサラリーマンが大多数になった今の日本社会では組織の維持運営が喫緊の課題である。マクルーハンの「マネージメント」が広く読まれているのがその証左と思うが、日本には日本の文化と組織運営があるのだが、文化論を度外視して「マネージメント」を教本にしている管理職は会社の害毒だろう。
 日大紛争(日大闘争)が何故全国に飛び火したかって事象を誰も分析していないのが昔からの代々木系の伝統だろう。失敗を積み重ねることが成長の要だって考えるのは間違っている。それが、1968年の日大闘争から学んでいない。
 社会は変化している。今では情報はマスコミのよって伝達されるものでは無くてネットで伝達される。しかも、一方的に広報されるのでは無くて、興味を持った人々(ま、昔の野次馬なんだが(苦笑))によって拡散される。
 組織運営は旧来のピラミッド構造では成り立たなくて、個々の構成員の総力になっている。それを支えるのが広い意味での情報だ。部下に録音されるような組織にはもっと別な問題がある。それは戦略をノルマに読み違えた管理職の無能だろう。
 日大アメフト部も同じジレンマに陥っている。
 スポーツの精神を大学の営業活動にはき違えて、スポーツ本来の「方針」をゲスな「戦術」におとしめたのだから。
 私大だから営業的な対応もあったのだろうけど、基本、スポーツは営業ネタでは無い。そもそもスポーツを理解してる「方針」が日大に問われているのだが、うやむやな経営が学びの府たる日大50年の反省から見直すべきだろう。

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2018/06/15
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