スキー運動ヲタク!
スキー運動ヲタク!
私は運動では「極めたい」って目標を持って挑戦していた。
例えば「水泳」では、まだ、十分に泳げない小学生の頃から「バタフライ」を泳ぎたいと思っていた。
特に「競泳」では無くて「レスキュー」で荒波を超えていくバタフライに興味があった。当時は「抜き足」でしか「遠泳」できない水泳技術だったけど、クロール、平泳ぎと進んだけどバタフライのドルフィンキックがマスターできなかった。
有る時、波が強かった小樽市の塩谷の海水浴場(遊泳禁止ギリギリだった)で波に持ちあげられて両腕で波の先にこいだらドルフィンキックで波の先に出ることが出来た。
後日、プールで同じ感覚で泳いだらバタフライで泳げるようになった。で、水泳を卒業した(高校生の頃)。
で、人生で極めたい運動の目標はスキーのウエーデルンになった。小樽生まれで「我流」で滑っていたのだが、パラレルまでは滑れたがウェーデルンはなかなかマスターできなかった。
大学は北見市なのだが、ここの体育の時間に「スキー実習」があって、空きがあれば、講義該当者でなくても大学のバスで当時の若竹スキー場に参加出来てスキーを「楽しむ」ことができた。
もっとも、北見の若竹スキー場は自衛隊の美幌基地の訓練自衛官も来ていて、彼らは我々のグラスファイバーのスキー板ではなくて「単板」のスキー板なので、転ぶたびにスキーを折っていた。
ここでもパラレルは出来るのだけれど、ウェーデルンには進めなかった。
社会人になって30歳を過ぎた頃に転職して、その会社で冬にスキー旅行が定番になっていた。富良野プリンスホテルが定宿で、毎年参加していた。
社員の中にスキーが上手な奴は居なく、ま、スキーが好きって程度のグループの泊込みの宴会だった。
その仲間の一部と同じシーズンに赤井川村のキロロスキー場に行った時のことだった。急斜面を滑っている時に転倒してストックを折ってしまった。しょうがないのでレンタルに行ったのだけれど、女性用しか無くて、普段より15cmも短いストックを借りた。
これで、キロロの緩斜面を滑ってパラレルで減速しようとすると斜面からの反動が大きくて、リズムをとるとウエーデルンでクネクネと滑ることが出来るようになった。 重心を低くするのがコツだったんですね。
翌年の会社のスキー旅行では短いストックを購入してウェーデルンで斜面を下っていた。
スキー教室に通っている「頑固なリケジョ」が「どうやったら、それ出来るのですか?」と聞いて来たので「パラレルで滑ることが出来るなら、両足をそろえて外に押しだす感覚でバランスを保てば良いよ」と教えたのだけれど口では伝わらない。
「後ろから付いて来いよ、俺の動きの真似をすれよ」と言って、前を滑っていったのだけれど意外と彼女は付いてきた。
「まだ、足、開いているだろう。足を揃えて一枚板にするのパラレルってのがウェデルンなんだ」
「もう少し一緒に滑ってくれます」
「いいよ、今度は俺のスピードで滑るぞ」
一緒にゲレンのリフトを利用しながらコツを説明したら、彼女は「上手くなれそう」と感覚を持ったみたいだった。
二人だけのリフトだったので聞いてみた。「会社で二人の関係を「怪しい」って噂になってるよなぁ」」」
「スキーですか?」
「ま、それも含むけど、個人授業をうらやましく思っているのかなぁ」
「私と二人でキロロスキー場のホテルに一泊旅行したって噂が流れてますよ。なんででしょうか? 私が魅力的な人間だから注目されてるのかなぁ」
「そう思って置いたら。スキーは下手だけど」
「今日はスキーの先生ですね。不思議です、色々な事を私に教えてくれる○○さんと出会ったことが」
「そっかぁ、それが人生かな」
全然、スキーと関係ない話をしていた。
 緩斜面を思いっきりウェーデルンでクネクネして、急斜面の手前で待っているとほとんど背後に付いて来ていた。
「出来たじゃ無いか」
「初めてスキーが楽しくなりました」
そんな事があって、私はスキーも極めたって感覚で卒業しました。
その後「歩くスキー」に挑戦しました。
「クラシカル」で滝野すずらん公園を走ってました。
その後は「自転車」でしょうか?
そこで「体力の限界」で運動は「極めるより、届かない」になりましたけど。
下記の映像の1分19秒あたりがパラレル風のウエーデルンです。ご覧ください。
私をスキーにつれていって -原田知世-
私をスキーに連れていっては、1987年11月21日公開の日本映画です。挿入歌「恋人がサンタクロース」は、1980年12月1日リリースの、松任谷由実さんの、10枚目のオリジナルアルバム『SURF&SNOW』の1曲です。


2022/02/08
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