教育の問題では無く文化の問題かも
小泉郵政解散って衆議院解散が2005年8月8日に行われた。奇しくも野田佳彦総理が「近いうち」と三党会談で述べた月日と同じである。参議院で郵政民営化法案が否決されたので衆議院を解散し国民に真を問うってのは総理大臣の専権事項だが、かなり乱暴な判断でもある。しかし、この小泉旋風に浮遊する国民は流された。劇場型選挙である。
それに比べて今回の衆議院解散選挙は命題の無い「追い込まれ解散」なのだが、これは選挙が終わってから書くことにする。
小泉純一郎総理(当時)を支持することが当時の感性的エビデンスに合致し、何をやろうが小泉旋風に国民は流され続けた。これは先に書いた『
感性的エビデンスを排除しなければ日本沈没』に書いた「B層」戦略によるのだが、この「B層」は当時一部の政治コンサルが国民を分析した結果定義されたものだ。
で、何故「B層」が生まれたかまでは言及していない。当初筆者は教育の問題と考えていたが、これは文化の問題で国民文化に起因するのではと最近感じている。ただ、国民性と普遍的に考えてはいない。社会現象として捉えている。
この「B層」が生じたのはいつ頃からであろうか。少なくとも小泉純一郎総理による郵政解散の時には捉えられていたのだから2005年には感性の高い人々には気が付いていた。すると「中国の蝶が羽ばたくとニューヨークに嵐が来る」の片山善博元鳥取県知事の節によると事象が顕在化するには10年前に要因があるの説を採ると1995年頃。このころから感性的エビデンスを自らの思考回路に組み込んだ「B層」が出始めた。
テレビが形作った思考回路かな?
1989年11月にベルリンの壁が崩壊してから世界はダイナミックに変わり始めた。東西冷戦構造の終焉である。外的要因の変化の激しい時代の幕開きである。個人にとってはソ連が崩壊することにより昔覚えた国名では通用せず変化を新しい知識として受け入れることが先にあり、考えるためには多くの新たな情報を必要とした。
一方では土地取引の規制強化で急速にバブルが冷えていき、日本経済は失速する。そもそも、日本銀行は手綱を締めるのは得意だが、手綱をゆるめて馬車(日本経済)を加速するのは下手だ。機能的にも出来ない。だから、今回の安倍晋三自民党総裁の金融緩和は理論であり実績は過去の日本で皆無なのだが、これもまた別な機会に書くことにする。
日本経済の出口が見えない時代になってマスコミには政治バラエティ番組が花開く。ヒョーロンが世間を闊歩する時代が始まったのが1995年頃ではないだろうか。
その時代のテレビの手法は一風変わってきた。今でこそ散見されるが、番組をCMの前後でリフレインする手法。山場の直前にCMを入れる手法。はては、後期には番組宣伝の番組が制作される。いわゆる番宣である。最近はNHKですら番宣を多用している。
我々視聴者はCMの終了を待たされる機会が増えたとおもう。我が家のテレビは2画面同時表示が出来ないのでCMの間に他のチャネルを見ると肝心なタイミングで元の番組に戻れないので苦労している。CMの間がトイレタイムだった昔と違い、今のCMは番組の中で不均等に流される。そのために多くのCMは15秒で作られる。ある時は1つだけ流し(15)、あるときは4つも8つも流す(1分〜2分)
共通なのはどれも15秒にはめ込むことだ。
だから我々は短時間で事態を把握する訓練をテレビを試聴している間は強要される(民法に限ったことでは無いNHKも番宣で同様な手法を盛り込んでいる)。こはや考える時間は無い。東西冷戦から社会現象化した多くの吸収する情報を的確に吸収するのに慣れたのでCMも吸収する。考えることはしない。そもそも、考えさせられるCMなんて公共広告機構のCMにすら無い。加えてCMの物量作戦だ。
ネットがこれにさらに輪をかける。結局、考える時間を吸収する時間に置き換えてしまった故に、考える時間を失ったのが現代人ではないだろうか。
どうもそれが「B層」の正体のような気がする。で、厄介なことにこの「B層」は現在進行形で増殖中なのだ。
テレビはここにきてまた一つ罪を重ねている。