ミクロの投票観、マクロの国政観が大切

選挙は「数の論理」だが
 衆議院議員選挙の間にはあまり書こうと思わなかったのだが、「選挙とは何か」って観点で特定の候補者や政党に偏らないメモを残しておこうと思う(もっとも、それが暗に特定の候補者や政党に関することになるとは思うが)
 国民の視点に立てば、繰り返される選挙の意味はいまいち不明確だ。一番の問題は市町村議会の選挙にまで「政党」が出てくることだ。基本的にGHQである占領軍が押しつけたとは言え、地方自治と国政は無駄な二重構造では無くて民意を政治に反映させる制度設計がなされている。ただ、問題は「票田側」である投票者にある。
 国民は選挙権を持つ。一人一票だ。だが選挙に立候補する候補者が対象とする票田は一人一票では無い。我々が関わる選挙は「組長選挙(市長等)」「知事選挙」「県議会議員選挙」「地方自治体議会選挙」「衆議院議員選挙」「参議院議員選挙」と多岐にわたる。
 その場面場面で代議員を選べるようになっているのだが、それをゆがめるのが政党政治だ。基本的に政党ってのは憲法に明文化されていない「任意団体」だ。但し政党助成金って憲法に立脚しない制度が存在する。違法とまで言わないが灰色の制度が「政党」を正当化している。
 その何か解らない政治集団が先に述べた選挙で威力を発揮する。威力とは「票田」と呼ばれる有権者集団の統率だ。
 基本的に利益集団やイデオロギー集団が「政党」って名の下に集まったから矛盾が生まれる。政党とは何かが明確な時代は大正デモクラシーの時代までで、その後、「政党」は「ある種の利益代表集団」になった。所謂利権の温床である。
 「ある種」とは国民の税金の配分に関わる利権である。公明党(あ、具体的な事は書かないと前述したのに)が与党である理由はここにある。税金で集められた国家予算を「使う側」に居るのが与党であるから(実際は官僚が好き勝手してるのだが)そこに居るのは税金再配分で「おこぼれに預かる」のが得策だろう。
イデオロギーが政党を位置づけてない好例だ。利益集団が政党の一面でもある。

民主主義の国民主権は選挙結果だけ
 別に選挙における投票数の多寡で「政党」(先に書いたように利益集団)が選抜されて立法府である国会で都合(これも投票による結果)の良い法律が作られるのを否定はしない。それが人類が未だ到達し得ない「究極の政治制度」への過渡期の矛盾なのだから。
 だけど、何でも「無条件に信任した」って感覚を政治家が持つのはいかがなものかと思う。ま、ここは大阪市長の橋下徹氏を暗に批判してるので実名で記すが。
 代議員制度は国の運営を直接民主主義で選択するには国家の規模(人の数)が大きくなったときに効率的と考えられた制度だ。古代ギリシャの市民は直接選挙制度の下にシチズンであるためには兵士でもあった。つまり直接政治に加入するが故に直接国防にも加入する権利と義務を双方持ち合わせた制度で運営されていた。当時は国民には奴隷も居たので、有る意味で参政権を得るには兵士である必要があった。
 当時と比べて人口が増えたので、国家の運営は代議員制度で行われたほうが効率が良いと考えられた。その代議員を選ぶために選挙制度が構築された。
 このあたりは現在の民主主義国家が歩んだ道筋だ。
 多少の制度の違いはあるが基本にあるのは「国民主権」である。
が、「1票の格差」に代表されるように本当に国民主権が制度設計されてるのだろうか。これについては様々な議論があって、例えば選挙権を20歳としている論理的根拠は何もない。同じく何歳になっても投票権あり続ける意味も論理的根拠が無い。国民は等しく選挙では1票を投じるって考え方は合理的なのだろうか?
 とりあえず、そうしておけば国民主権的な選挙を行えるってご都合主義の産物ではないのだろうか。言葉は悪いが棺桶に片足突っ込んだ老人と今年成人を迎えた若者とが同じ1票なのは納得が行かない。
 司法は「一票の格差」と言うが、政治は未来志向なはず(ま、多くの政党が後ろ向きなのは事実だが)なのだから、これからの社会を形成する若者に傾斜配分するべきだろう。
 この選挙制度の矛盾に関して先の政党は何も言わない。未来を作るのが政治だって概念が無い。単なる数合わせが政治であり民主主義と信じている宗教団体に等しいのが今の政党政治だ。
 違うんだなぁ。政治は国家の未来地図を描けなくてはいけない。そのための「脱官僚」には意味がある。官僚は「戦術」は作れるけど「戦略」は作れない。それを上手く使うのが立法府の代表である総理大臣の行政府のコントロール能力だ。
 その「代議員」を選ぶ選挙が、残念ながら唯一の国民の国政への参加機会だ。


議席数と、それによる政治の方向
 今回の衆議院は0増5減により議員数が475議席になる。安倍総理が解散時に選挙の勝利数はと聞かれて「与党併せて過半数」と答えたのは自民党と公明党を併せて238議席を越えるってことだ。つまり238議席が過半数となる。
 衆議院の全ての常任委員長のポストを独占して委員数も過半数となる「絶対安定多数」には266議席が必要になる。現在の自民党の議席数は294、公明党は31、併せて与党合計は325議席となる。325議席の与党が過半数238議席を目指すってのはあまりにも弱気だが、これには安倍晋三総理の覚悟が入っている。
 その覚悟とは財務省による支配からの脱却だ。時計の針を3年ほど前に戻してみよう。野田政権は民主党の選挙公約で「消費税は上げる必要が無い」と明記したのにも関わらず3党(民主党、自民党、公明党)合意により諸費税を8%へ、そして1年半後に10%へ増税する合意に達し法案を上程し可決した。なんでこんな事になったかを考えてみる必要がある。そして、それが財務省による日本支配の現実だのだ。
 衆議院解散の記者会見で安倍晋三総理大臣はアメリカの独立戦争の大義を例に出し「租税は国民が決める。だから、衆議院を解散して国民に信を問う」と話した。これは第一次安倍晋三内閣の「戦後レジュームからの脱却」と同じように「財務省支配からの脱却」を宣言したものだ。併せて「1年半後には景気条項は入れないで10%にする」と語ったが、ま、政治の世界は一寸先は闇でリップサービスの域を出ない方便である。
 さて、先の議員数だが現在の325議席からどれくらい減るかも大事だが、本質は「財務省支配からの脱却」なのだから財務省シンパの国家議員(多くは自民党)を落とすための仕掛けが今回の衆議院解散に目論まれている。だから安倍晋三総理として財務省シンパが全て落選しても238議席の過半数を残すことが出来れば良いと腹の中で考えている。
 つまり、自民党の体質改善を今回の選挙に賭けたのが安倍晋三総理大臣の真意だ。
 だから、衆議院の2/3である317議席は求めない。過半数を確保して財務省シンパの自民党議員を落選させることができれば安倍晋三総理大臣にとっては「勝利宣言」なのだ。
 マスコミが「自民党は300越えるでぇ」と叫んでくれたほうが財務省シンパの長老議員のタガが緩む。だから、決して「褌を締め直せ」と活を入れない。そのしたたかさを読めるマスコミ人はほとんど居ない。
 誰が当選して誰が落選するか、こそが今回の選挙の意味であり「与党再編成選挙」と呼んでも過言では無いだろう。

財務省シンパの国会議員を見抜け
 国民から税金を徴収する国家のビジネスモデルは何故存在するかは昔の書き込みにあるので参照してもらいたい(税金はなんのために徴収されるのか)。
 財務省が政治家を支配できる理由は明確だ。税金の再配分のさじ加減を持っているのは財務省の役人で、そのおこぼれにあずかるのが与党政治家だからだ。
 財務省にとっては税金の中から自分たちの給与と天下り先の予算(仲間の給与)以外の余った税金は自分たちの利権を守ってくれる政治家に分配して来た。だから、税金が増えるほど自分たちの利権を守ることができる。ただそれだけだ。
 その事が戦後の自民党の体質であり、しかも政権が民主党に代わっても今回の消費税8%の3党合意に如実に表れている。自民党であれ民主党であれ財務省の政治家支配は変わらなかったのだ。それを見抜いた安倍晋三総理は消費税10%の延期を口実に「財務省支配からの脱却」を賭けて衆議院を解散したのだ。
 だから、身を切る改革で自民党が議席を減らしても、その質が向上するなら最低過半数で良いと考えたのだ。
 さて、安倍晋三総理大臣には表立って誰が財務省シンパだとは名指し出来ないだろうが、ここに選挙違反に成らない程度に書いておく。筆頭は麻生と谷垣と町村だ。この派閥の腰巾着な議員も同じだ。財務省の利権保持のためにばらまく税金にタカル典型的な旧来の自民党を代表する議員とその取り巻き。これこそが安倍晋三総理大臣の「財務省支配からの脱却」を阻害する内なる敵なのだ。
 安倍晋三総理大臣を信任するのなら、闇雲に自民党に投票するのでは駄目だ。安倍晋三総理大臣が何を考えているのかを考えて、例え自民党支持者であったとしても小選挙区であえて他党に投票する思慮を持つことだ。
 日本を変えるのは自民党の自助努力に負う所が大きい。野党には日本を変えられない。野党はカレーライスのラッキョウみたいもので無くては寂しいが、所詮、カレーライス本体に取って代わることはできない。
 今回の選挙で「討ち入り選挙」は赤穂浪士も吉良上野介も同じ自民党なのだってオチが後生に気がつかされるだろう。

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2014.12.07 Mint